花々



 いつしか親友の部屋には、一輪挿しの花が生けられるようになっていた。それに気づくのに、そう時間はかからなかった。今までは簡素すぎた室内が、ようやく色を見せ始めたのだ。
 花だけではない。小さなクリスマスツリー、おもちゃのような赤や緑のどこか懐かしい雑貨。ああ、クリスマスがきた…。
 ヒロオはこたつで丸くなりながら、ワインを運んでくる文久の姿をぼんやりと眺める。気を抜くと、その姿が一瞬でぼやけて滲んで見えなくなるから、気合いを入れて眉をしかめた。
 自分とは違う他の誰かの影響が目に見えるなんて、胸が痛くて死にそうだと思った。
 ヒロオの仕事は転勤が多く、先日ようやく地元の関東へ戻ってきた。元々、ずっと一緒にいると気持ちを抑えきるのが辛いから、という理由で最終的にそこの会社に決めたので、素直に喜べない。
 自分の恋心に気づいた時には、親友は悪い男に夢中になっていた。別れた後は恋愛だなんて口にするのも怖いくらい、見ていられないくらい一生懸命だったから、とうとう気持ちを告げることはできなかった。
 色っぽい容姿をしているし外面は良いし、その上ちょっかいを出したくなるような隙がある文久だから、放っておけば他の男が寄りつくことはわかっていた。わかっていたにも関わらず、このどうしようもないほどのせつなさが苦しい。
「何、おもしろい顔して。ほら、ピザ食べようよ。ヒロオ。カンパ〜イ♪」
「あの花」
 それ以上言葉にできないし、口にすることは難しかった。
「うん?ああ、花があれば、いいかなと思って。スーパーで、食材の買い出しついでにね」
「それに、ツリーもある」
「もうすっかり、クリスマスだよねえ。ヒロオは子供の頃もらったプレゼントで、何か印象に残ってるものある?」
「文久…」
 はっきり問いつめてしまえれば、どれだけスッキリするだろう。でも本人からそんな現実を突きつけられたら、正直辛い。
 質問されても今はこの状況に頭がいっぱいで、何も思い出せない。部屋に二人きり。こんなシチュエーションは、数え切れないくらい何度も何度も、お互いの間をすり抜けてきたのに。
「車の模型とか、地球儀とか、色んな物をプレゼントしてもらったんだけど…何より、今から考えるとその選んでくれる親の気持ちが、嬉しくてありがたいなって思うよ。…ヒロオ?」
 聞きたくないことも、知りたくないことも、何でも、文久はヒロオには打ち明けてくれるのだ。それは長い時間をかけて、作りあげてきた信頼関係の賜物であり、告白なんてしてしまえばきっと、あっさりと砕かれてしまうものなのだろう。泣きたい。
 この鈍感男は、ヒロオが親友であることに甘えきっていて(そして、自分もそれを最大限に赦し利用もしている)、まさかそんな浅ましい欲望を抱かれているなどとは微塵も考えたことなど、ないのである。
 なのに新しい恋人の話は、まだ一度も聞かされてはいない。どんな男で、年収はいくらで、学歴はどうで、背は高いのか、もう何もかも気になって仕方ない。
 秘密にされると、余計に気になってしまうのに。
「…このピザ、ちょっと辛すぎないか」
 クソ、声が掠れてしまった。
 大体料理だって今まで、死なない程度にしか手をつけていなかったのに。いきなりピザなんて、自分はその練習台としか思えないそんな思考回路とか、クリスマスなんて消えてなくなればいい。
「そうかな?なんか…ヒロオ、変だね。まだ一口くらいしか飲んでないのに、酔っちゃった?」
「そんなわけないだろ」
「標準語に戻ったし」
「今はこっちに住んでるから。郷に入れば郷に従え、っていうだろ」
「何怒ってんの?そんなに辛かったんなら、ピザは食べなくていいから…。ごめん。ヒロオの好きな唐揚げもあるし、機嫌直して」 
 素直だし、きれいで可愛いとも思う。なのにそのすべてが、どうしていつだって、自分のものにはならないんだろう?大事にして優しくして、文久の望み通り振る舞いたいと願っているのにも関わらず、本音はそんなきれいなものじゃない。
「嘘だよウ・ソ。ピザはすごく美味しいし、俺は怒ってなんかいませーん。はは、ビックリした?文久」
「も、もう!…僕は、ヒロオに嫌われるのは怖いから。そういうたちの悪い冗談は、勘弁してよね」
 誰にでも好かれたいとは思っていないし、別に嫌われたって平気だけど、ヒロオには、嫌われたくないんだ。学生時代の懐かしい言葉が、柔らかくヒロオの頭を過ぎる。笑いながらピザを頬張るその唇が、妙に色っぽい。
 嫌われたくない臆病者は、本当は自分の方なのに。必死で殺してきたこの感情が、不意に口からついて出そうになる。告げてしまえば、楽になるだろうか?

 〜〜〜♪

 その時、ふと流れてきた携帯の着信音に、ヒロオは硬直した。文久も携帯にちらりと視線を投げ、出ようとはしない。聞き覚えのある着信音。大学で、外で、この曲が流れる度に、ヒロオは憎悪を押し流さなければいけなかった。
 その着信音に設定されていたのは、忘れるはずもない、志賀令治だったのだ。
「…さか、よりを戻したのか?あいつと。文久」
 無意識のうちに、詰問めいた口調になるのは仕方ない。それだけの三角関係だった。
「違う。僕がつきあってるのは、令治じゃない」
「だったら、どうして!何であいつが、お前に連絡してくるんだよ、今更っ、どの面下げて!」
「ヒロオ!」
 身を乗り出せば、掴める距離。やはり携帯の画面には、志賀の名前がはっきりと映し出されていた。
 どれだけこの男が自分の大事なものを傷つけたのか、ヒロオはよく知っている。絶対に赦さない。今度は何を企んでいる?
「…文久?なかなか出てくれないから、嫌われたかと思ったよ」
 その声の音質も、嫌みったらしい言い回しも、全部全部当時と何も、変わっちゃいない。
「志賀さん。アンタまだ、文久の周りをうろついてんのか…」
「ん?あれ、誰だったかなあその声。その言葉、そっくりそのままお返しするよ。ええと…確か、文久の親友さん?」
 笑いの滲んだ、最大限にむかつく返答が耳障りだ。
「残念だったねえ、神崎。お前がいくら望んでも手に入らないものを、俺は自分のものにした。俺たちの繋がりを、お前なんかが絶つことなんて未来永劫、不可能なんだよ!せいぜい妄想の中で、大好きな文久の尻にでも突っ込んでいればいい」
「……っ」
 勝ち誇った大嫌いな顔が目に浮かぶようで、ヒロオは言葉に詰まってしまう。
 その様子を見て、何を言われたかまでは聞こえなかったと思うが、文久が携帯を取り上げた。
「令治!もう、頼むからヒロオにおかしなこと言うのは止めてよ。また、僕からかけ直すから」
 そう。ずっと辛かった…こんな二人の関係を間近で見せつけられて、見ていることしかできなくて…苦しくて。だけど傍を、離れられなかった。
 通話を切った文久は、沈黙したままのヒロオに向かって、床についてしまうくらいに頭を下げる。
「…ヒロオ、ごめん!あのね、本当に令治とはなんでもなくて。再会して、色々あって、時々会ったりしてるんだけど。ヒロオに言ったら絶対心配するって思ったから、言えなくて…別に、隠そうとしてたわけじゃないんだ」
「だって、そんなのおかしいだろ?また文久を…なあ、お前はあんな奴のことを信じられるのか」
「信じたいと思うよ。それに、ヒロオだって知ってたはず。…おかしいんだよ、僕たちは。ごめんね」
 それだ。二人の間に流れる濃密な空気、というものにヒロオはどうしても割り込むことができなかった。そして今も、その力関係は変わっていないような錯覚すら感じる。僕たちはと括られてしまうともう、罵ることもできやしない。
 別離を選んだ。それなのにもう一度お互いを結びつけるほど、強い運命の糸でもあるというのか?
「…わかったよ」
 苦渋の溜息が漏れる。この恋情が勝てないことなんて、昔から思い知らされている。
 いつだって、最初に折れるのは自分でなければいけない。それは惚れた弱みであり、ヒロオの精一杯の気遣いだ。
「でも、俺はやっぱり心配だし…くれぐれも、気をつけてくれよ。文久」
「ありがとう!」
「で、つきあってる男はどういう奴なんだ?」
「…あ、その、えっと……」
 文久はわかりやすく狼狽え、真っ赤になって言い淀んでしまった。よほど言いたくない相手、ということらしい。志賀より言いにくい相手なんて、ヒロオには想像もつかないのだが。
「教えてくれるよな?文久。俺たちの間に、隠し事はなしだ」
 嘘をついた。一番大きな隠し事をしているのは、ヒロオ自身に他ならない。
「ちょっと待ってて。写真、持ってくるから」
 はい、と手渡されたのは紅葉を背景に微笑む、恋人たちの姿だった。 
 背は高め。肌は少し、浅黒いだろうか。美形、とまではいかないが雰囲気のある顔立ち。認めたくないが格好良いし、なによりお似合いに見えた。
「…いい男じゃないか。まんま、文久の好みだな。どこで知り合った?同僚か?」
 そう。志賀は唯一、文久の好みから外れた男だった。そんなどうでもいいことを思い出しながら、自分を抉る。
「同僚じゃない。実は…後藤くんは、彼が一年の時僕が初めて受け持ちをした生徒で……」
「……………」
「ご、ごめん。引くよね、普通。でも、好きなんだ」
 消え入りそうな声で続けて、文久は泣きそうな微笑みを浮かべる。
「それで成就するとこが、すごいな。文久は。よかったな」
 よし、言えた。どうにか、今度も間違えなかった。
 その一言に多大なるエネルギーを費やし、ヒロオは親友を祝福する。
「悩んだりもしたんだけど…後藤くんのおかげで、僕は、ほんとに少し成長できたんだ。令治のことだって、ちゃんと受けとめることができるようになったし、なにより、あんまり自分を責めなくなったような気がする」 
「へえ…」
「後藤くんが、それでもいいって言ってくれるんだ。僕の足りない、欠点も嫌な部分も。考えすぎるな、怖がるな。好きだから安心しろ。大丈夫だからって…いい男でしょう?今度、ヒロオに紹介するね」
「………紹介…は、まだ…心の準備が。ほんっと、勝ち目がないよ。絶対離すな、そんないい男」
「?」
 きょとんとした視線を誤魔化すように、ヒロオはグラスを傾ける。
「文久の幸せを祝して、カンパーイ!」
「カンパーイ!!」
 とんだクリスマスプレゼントは、親友の幸せという、本来は喜ぶべきはずのもの。文久の一途さが報われたなら、きっと末永くその幸せは実を結んで続いていくに違いない。…羨ましい。
 来週末、合コンでもセッティングしよう。文久の面影なんて微塵も感じないような、素敵な人と恋に落ちよう。
「へへ〜。僕、先生になってよかった。後藤くんの話を聞いてくれるヒロオがいてくれて、よかったなって言ってくれて、すごく幸せだと思う。ヒロオのこと大好きだよ」
「はいはい。はいはいはいはいはいはい」
「何?その投げやりな返答…」
「俺の方が、もっと文久のこと想ってるよ。お前がビックリするくらい」
「へへ〜〜〜」
 本気で自分の気持ちを告げても、幸せそうにニヤニヤするだけで、そんな表情ですら可愛いと陥落してしまうから、これは惚れた弱みでなくて、一体何だというのだろう。
「たんたかたーん、たんたかたーん、めーりーくりーすまーーーす♪」
 いい感じに酔ってきたらしい文久は、微妙なリズムでクリスマスソングを歌い始めた。へたくそすぎる。歌詞を憶えていないから、半分以上が鼻歌だ。後藤くん、の前でもこんな風にはしゃいだりするのだろうか。
「後藤くんの前でも、そんな風?お馬鹿な文久」
「ご、後藤くんの前では…もっと……僕は年上のいい男風に見せたいから!違う…んじゃないかなあ」
「それは勿体ない。前も言ったような気がするけど、背伸びしてボロを出すよりも、自然体でいけば?」
「うっ…ま、まあ…。小出しにしていくよ」
 ほんのり上気した頬で、罰が悪そうに苦笑いする。それでもご機嫌な様子で唐揚げに手を伸ばし、ヒロオがあまりにジロジロ眺めているものだから、その視線にん?と疑問符を浮かべ、もうその何もかもが全部、いとしくてたまらない。
 彼の幸せな風景の中に間違いなく自分も含まれていることに、今はただ素直に喜ぶだけ。


  2007.12.14


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