カレーが食べたくなったら



 あなたのことが、好きでした。大好きでした!

 昔よく、当時付き合っていた男と通ったカフェだった。
 そこのカレーが好きで、僕はそればかり頼んでいた。少しだけ辛口な味は今でも変わりなく、美味しかった。それが嬉しいような懐かしいような痛みを伴って、変な気持ちになる。
「あの、すみません!」
 店を出るとそのウエイターは格好そのままに追いかけてきて、振り返ると緊張した顔を僕に向けていた。昔高校生だったような彼はいつの間にか、僕の背を追い抜いている。時の流れを感じる。
 お互い名前も知らなかった。僕が行くと必ず彼が接客して、穏やかな物腰でカレーを運んでくるのだった。
「何か?」
「あなたのことが、好きでした。大好きでした!」
 道路の真ん中で彼はそう振り絞るような声で絶叫し、泣きそうな顔で微笑む。
 過去形にしては痛いくらい真剣で、切実な愛情。こんなことは、一生に一度あるかないか。
 その告白に心が揺らがなかったといえば、嘘になるだろう。元来僕は男が好きだし、ただ、今は好きな人がいた。そうしてこんな真摯な人間を弄ぶほど、僕は悪趣味でもないのだった。
「俺、真嶋明っていいます。ずっと、ずっとあなたのことを考えていました。お店に来なくなって、お元気なのかと、心配で!あなたの名前を、教えて頂けませんか…?」
「秋月文久。ごめんね、明くん。恋人と別れてから、ずっと行けないでいたから」
 彼は一瞬沈黙して、僕の過去と現状を繋いでいるような表情になる。本当に、好ましいタイプなのに。手を出せないなんて、勿体ない。僕はそんなことをぼんやり、頭の隅で考えていた。
「文久さん。…文久さんは、今、幸せ、なんですか」
「うん。でも、君と付き合っていればよかったね」
 僕はその時に初めて、ごちそうさま。以外の笑顔を、彼に浮かべたかもしれない。
 僕と再会してからずっと、泣くのを精一杯堪えていたらしい彼は、我慢できずに僕の前で涙を零した。きれいな涙。僕の手で、それを拭ってあげられたなら、どんなにこの人は喜んでくれるんだろうか。
「俺は、あの人のところから…あなたを、奪う勇気なんてなかった!あなたが、今、幸せなら、いいんです。もう一度会えるなんて、こうして言葉を交わすことができるなんて…、それだけで、俺は、」
 やっぱりこんなに純粋なものを、傷つけるのは気が引ける。
 きれいなものはきれいな思い出のまま、別れた方がずっといい。何も、交わらないままに。
「ありがとう」
 僕はハンカチを取り出して、すいと彼に差し出してあげる。お気に入りのハンカチだった。まだあまり使っていない、水色の無地に紺の鳥が小さく刺繍されてある柄だ。
「明くんに、これをあげる。好きに使って」
 涙を拭わずにそれが宝物のようにハンカチを握りしめ、彼は言った。
「もし、あのカレーが食べたくなったら!いつでも、店にいらしてください。俺、お待ちしていますから…」
「そうだね。カレーが食べたくなったら」
 折れてしまいそうなくらい、愚直な一礼。
 カレーというよりむしろ、僕はそんな男を食い散らかしてみたい。
 きっとまた、こんな出来事も彼の名前も忘れた頃に、僕はあのカレーを食べに行く。


  2007.01.28


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