ボーダーレス



 お互いを隔てていた線は、とうとうなくなってしまった。

 卒業式が終わった後にやりたいことなんて、後藤には一つしかなかったのだ。
 すぐに直行したのは、秋月の部屋。今日はお祝いらしく、小さい花束が部屋を明るく彩っている。帰りにきっと渡されるのだろう。
 いつしか後藤にとっても、その花は秋月の部屋を訪れる楽しみの一つだった。
「後藤くん。高校卒業おめでとう」
 卒業間際、自分と別れようとした心配性の恋人は、柔らかく微笑んでグラスを傾ける。
 こんなに大切に想っているのに。秋月が離れようとするのが辛くて、後藤は久しぶりに泣いたのだ。ちなみにその前に泣いた理由も、この恋に起因している。
 今ではそんなこともあったと、思い出す二人の出来事の一つに変わってはいるのだけれど。
「ありがとう。乾杯」
 今日という日を迎えるのは、本当に長かった。後藤はそんな風に思って、ジンジャーエールを飲み干した。秋月といる時は、アルコールを飲ませてもらえない。
 感慨深いと浸っている瞬間が勿体ない。いつも過去のことより今、未来、そう二人のことを考えていきたい。
「ところで、オレたちもう先生と生徒じゃないけど」
「う、うん」
 単当直入に切り出せば、秋月の表情に緊張が走る。
 そんな揺れるのを見せられる度に、わかりやすくて可愛くて、どうにかしてやりたくなる。
 もう少しそんな心の動きを楽しみたい意地悪さと、不安を解いてあげたくなるような優しさで迷い、そういう自分の反応すら楽しい。
「文久って、名前で呼んでもいい?…本当は前からそうしたかったけど、アンタそういうとこ、すごく気にするだろうと思って言わなかった。嫌かな」
 学校で間違って呼びそうになるから嫌だ、なんて模範解答は予想済みだったのだから…。この日まで、我慢することに決めていたのだ。
 もうこれで、みんなの秋月先生じゃなくなる。好意を向けられて、笑顔を浮かべる秋月を校舎で見なくていい。これからは、ずっと恋人として一緒にいられるのだ。
 再び同じ高校に勤務し、また「秋月先生」と呼ぶことになるとは、この時後藤は予想もしていなかったのだが。
「嫌じゃないよ」
 了承は、たった一言。
 口にはしないが、恥ずかしいと思っているに違いない。気持ちが簡単に読めてしまう。
「で。オレのことは、真之って呼んでほしいんだけど」
 ここまでが、1セットだ。自分のことを名前で、秋月に絶対に呼んでもらうと決めていた。
 普通の恋人同士のようなことに、憧れているとかそんなことじゃなく。今よりもっと、距離が近づくような気がして。
「う…」
「呼んでよ。名前」
 テーブルに置かれた手を優しく撫でる。秋月の頬が赤く染まるのを、後藤は目を細めて眺めていた。
 細くて、守ってあげたくなる。かといって、この要求を我慢するわけにはいかない。
 この恋を守る為ならば、お互いに色々と努力してきたつもりだった。そしてこれからも、きっとそれはずっと続いていくと信じている。
「まさゆき」
 それは名前を呼ぶというより、幼い子供が「あれは車だよ」と教えられ「くるま」と確認するような物言いで、後藤は思わず笑ってしまった。
「もっかい。何でそんな、たどたどしいの。つれない唇」
「っ…!」
 唇を指でなぞったら、秋月は硬直し、ビクッと身体を後ろに退かせる。
 秋月の中にある新鮮な反応と淫欲のスイッチは、いつもどうやって切り替わるのか、後藤には不思議なのだけれど。
「ま、…真之……。真之、真之」
 呪文を唱える新米魔女か、おのれは。失敗ばっかりしそうだけど。後藤は、自分の頭をかいた。限界だ。
 大体昔から、付き合うよりずっと前から、一人で想っていた頃から…秋月の仕草が言動が可愛くて、たまらなかった。まして、今は触れ合える関係にあるのだ。
 独り占めしたい。二人だけの世界に連れ込んで、閉じ込めてしまいたい。どうしてそれが叶わないのか、切なくて胸が苦しい。
「あーっ、もう!駄目。じっとしてらんねーわ。ねえ、キスして真之って言ってよ。文久」
「真之…」
 突然身を乗り出した秋月に唇を奪われ、不意をつかれて瞬きをする。悪戯っぽく微笑む秋月は、優しい声で言葉を続けた。
「真之が欲しいのはキスだけ?」
「オレが欲しいのは文久の全部」
「フフ、どうぞ?」
 秋月の色気は、後藤の好きなものの一つだ。香る度に捕まって、耽溺せずにはいられない。

 習慣というのは、なかなか思うように変えられないものらしい。
「後藤く…」
「真之」
 あ、と官能的な声が上がった。呼び間違いがわざとだとしたら、たちが悪すぎる。それが演技か本当かなんて、後藤には判断もできない。
 散々焦らされて、ようやく手に入れた関係。諦めずにいられたのは、気持ちは重なっているとどこかで確信があったから。
 ただ見せつけられる側面がその度に違って、意思とは関係なく翻弄されてしまう。けれど、嫌じゃない。
「でしょ?文久。ねえ、それってわざと煽ってる?意地悪なんだから」
「…んっ…気持ちいいっ、真之の…」
「オレの何?」
 ほんの少しは、期待した。
「ひゃ…っ!…ぁ…そ、そう……それ好きっ…」
 今回はどうやら、口にはしてくれないパターンだ。そんな風に後藤は思って笑う。気紛れな恋人には慣れている。
 火照る頬が、後藤の首筋をすべるように撫でていく。汗に濡れた柔らかい髪が、視界の隅に見えた。
「もっとよがってよ。オレのでもっと、気持ちよくなって。文久…」
「ン…」
 不意に乳首を舐められて、後藤は息を詰める。止めるどころかいやらしく絡められる舌使いに、思わず腰が止まってしまった。
「ちょ、文久、」
「真之の喘ぐところも、見せて」
 女王様の命令のように聞こえた。匂いたつような唇がそう発音して、全てを委ねてしまいたくなるような衝動と葛藤し、後藤は首を横に振る。
 時折秋月はこうして、どうしようもないほど優位な立場で魔性の微笑みを浮かべるのだ。
「気持ちいいでしょう?真之のおちんちん、中で硬くなったもん。ね、声出して。僕に聴かせて」
 その威力をわかった上で甘く囁かれる声に、後藤の頭がクラクラする。
 言わせたかったフレーズは、不本意な形で表現されてしまった。そして単純なもので、簡単に反応を見せる自分の半身に参ってしまう。
「文久っ…勘弁、して……いいから!オレ、オレも気持ち…いいっ…うっ……!」
 弄られ続け噛み付かれた瞬間、達してしまった。じっとしていてくれない秋月が腰を動かすので、不可抗力。
 なんだか照れくさくなって、何か言いたげな唇を塞ぐ。求め合う切なさは、何よりも雄弁だ。
 お互いを隔てるものがなくなって、これ以上は近づけないほど近くにきて、いっそこのままでいられたらいいのにと願った。
 
「真之とこれからもずっと、傍にいられたら嬉しいな」
 布団の中で、密やかにそんな風に告げる秋月を抱きしめて、後藤は言い聞かせるように力強く応えた。
「なに、独り言みたいに言っちゃってんの?オレは離さないし、文久が逃げたって追いかけるから。そういうのが格好いいとか悪いとか、そんなん全然どうでもいい。アンタと一緒にいられるんだったら。なあ、わかってるだろ」
「後藤くんが格好悪いとこなんて、僕は見たことないけどね」
「真之」
「まさゆき」
 多分、秋月は眠くなってきたのだろう。わかりやすいその変化に、優しく髪を撫でてあげる。
 後藤は、秋月に甘えられるのが好きだ。頼られるのも嬉しいし、自分の頑張りの源になっていると思う。
「もっと名前呼んでよ。すき、って言われてるみたいでドキドキする」
「…じゃあ、もっと大事に優しく言わなくちゃ」
 とけるように名前を呼ばれて、柔らかな寝息がその後に続く。後藤は慎重に、恋人の額へキスを落とした。


  2011.01.01


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