瞳を閉じて
学校生活を満喫する。それが、羽柴の掲げる生徒会活動の一つの重要な任務らしい。
どこから調達してきたのか、大きな笹の木を学校ロビーに鎮座させると、生徒会長様は朝の朝礼で「幾つでも願い事を括りつけるように!野望がないと、行動できない云々」と熱弁を振る舞って、生徒の視線を一身に浴びていた。
各担任から配られた結構な数の短冊が、色とりどりに緑を埋める。
きれいな文字で迷いなく短冊に願いをつづる秋月を見て、倉内はその手元を覗き込んだ。
「フミちゃん、願い事なんて書いたの?」
「…僕?クラスのみんなが、夏休みの補習をしなくてすみますようにって」
「何それ」
見事に素通りされた友人の代弁、とでもいえばいいのか。
別に照れ隠しというわけでもなく、真っ先に思い浮かんだ願いが、それなのだろうか?
「何って、そんなに変?」
妙なところで鈍い秋月は、倉内の反応に不思議そうに首を傾げた。
こういう性格が、たまらなくヤキモキするというか…。後藤には、そこが良いのだろうか。変というより、ただそこで拗ねている後藤がほんの少し不憫になっただけ。そこまで説明してやる義理もないかな、なんて倉内が思った時、呆れたような声が隣りからかけられた。
「わかってないなあ、倉内は。秋月先生は、今更短冊にすがるようなお願いもないんだよ。きっと」
「そういう羽柴は、何て書いたの」
「俺はねえ、マサと…あ、それはいっか。もう一個はねえ、体育祭が無事に終わりますようにって書いたよ。あ、あと背が伸びますようにっていうのと、」
「待って。羽柴くん、今すごく言葉に引っかかりを感じたんだけど。僕の気のせいかな」
先程とはうってかわって、勘の鋭さを見せる秋月にますます倉内は閉口した。羽柴の言葉が引っかかることなんて、毎回のことだ。いちいち相手にしていたら、キリがない。
期待通りの反応だったのだろう。羽柴は、秋月をからかうことに決めたようだ。
「うん、秋月先生が気にすることなんて何にもないし〜。ね、マサ」
「なあ…、秋月先生。羽柴のことはともかく、もうちょっと色気のある願い事とかできねえの?」
ようやく口を開いたと思ったら、どいつもこいつも…。
その何もかもにあてられて、倉内は形の良い眉をひそめる。
「え、何その、ともかくっていうのは…?」
「フミちゃん、コイツらの漫才につきあうだけ時間の無駄だから。悩むなんて思考回路の無駄だよ」
やっぱり堪えきれなくて、倉内は溜息混じりにそう助言した。
「そういう倉内が、一番」
「ストップ!それ以上、何も言わないで。…はあ、僕図書室に行くから」
羽柴の的確すぎるツッコミなんて、今は欲しくない。
結局何の願いもかけず、倉内は重い足取りで図書室へと向かった。
暦の上での特別な日が自分に関係あるかどうかなんて、ただ一人にいつも左右される。
優しくされればもうそれだけで、いつもと違う特別になるのに。
「陣内さん」
「ああ、静か。何かあったかい?」
戸締まりをしながら名を呼んだら、会話を先攻されてしまった。そういう質問は、自分の状態がまるでいつもと違っていたみたいに聞こえて、恥ずかしくなる。
気にするのにも慣れてしまったから、倉内は小さい声で言葉を繋いだ。
「…陣内さんは、この日に何か想ったりするの」
微妙な表情をされてしまった。
こういう時、瞬間的に後悔する。言うべきじゃなかったとか、何度も。でも繰り返してしまう。
いつか間違いが肯定されてしまえばいいと、願っているせいかもしれない。
「…別に、言いたくないなら何もコメントしなくていいよ。知りたいけどさ」
黙り込んだ男に、倉内はそう肩を竦めた。
「この日はどういう訳か、町に浴衣の女性が増えるだろう。あれはいい」
「へえ、そういうのが好みなんだ」
「帰りに芝木先生を誘って、キャバクラにでも…」
本気か冗談かわからないのは、これもいつものことなのだから。
毎度、傷ついたりはしない。
倉内は、わざと明るく笑ってみせた。
「そういうところで、どういう調子なんだか全然想像つかないよね。陣内さん」
「別に普通だよ」
「普通がわかんないんだけど」
想像したくない、というのが正しい表現だろうか。
陣内が他の人間といるところなんて、…せめて同僚の芝木まで、だ。それ以外は、あまり宜しくない。子供じみた独占欲だが、倉内の正直な気持ちだった。
「今度、連れて行ってあげようか。静」
「折角だけど。うちが、うんざりするほど女系家族で、女は毎日見飽きてるから遠慮しとく」
女が嫌い、だとは何となく言えなかった。陣内の性癖がどうなのか、倉内は全然知らない。おそらくノンケなのだろうな、とは予想がつくが…だからといって、諦められるものでもない。
別に男を好きになってくれとは思わない。ただ、自分を好きになってくれれば。
「きれいなんだろうねえ、静の家族」
「僕も含めて、みんな似たような顔してるよ…」
「静がきれいだからね」
心臓が跳ねる。
咄嗟に、言葉が出てこない。そんなのはずるい。
「…陣内さんって、僕のこといじめたいのかからかいたいのか」
「静」
「え?」
倉内が見上げると大好きな顔は、柔らかく微笑んでくれた。
「今、君の願い事を叶えてあげてもいい」
「目瞑って」
言葉を撤回される前に、早口でそう願う。
ただの気紛れが、こんなにも嬉しい。その気持ちが、その言葉が。…嬉しい。
目を閉じた陣内にふと表情を柔らげて、倉内は思いきり幸せそうに微笑んだ。こんな顔を見られたら、きっと陣内は困ってしまうだろうと思った。だから、知られたくなかった。この感情は迷惑かもしれない。もしかしたらそれは思い違いで、期待を抱いてもいいのかもしれない。
好きです。
声にならない言葉が、唇を動かした。
優しくて冷たいこの男を本当に、倉内は大好きだと思う。
「ありがと。もういいよ」
できるだけ素っ気なく呟いて、倉内は陣内から背を向けた。
「キャバクラ楽しんできてね、陣内さん」
「ああ、静。私の願いも、君に聞いて欲しいんだが…」
「何」
「あと五分だけ、そこに居てくれないかい」
倉内は振り向いて、何を考えているかよくわからない陣内の顔を見上げる。
そういう不意打ちって、卑怯だと思う。すごく…、すごくだ。
「ありがとう」
返事もしていないのに勝手に都合良く解釈して、陣内は困ったように微笑んだ。
「陣内さんが望むだけ、僕の時間は欲しいだけあげるよ」
「欲しいのは五分だよ。静。君の今を少しだけ」
「何言ってんの?僕、あなたのこと好きなんだよ。陣内さん。キスするよ?それだけで済ます自信もないよ。どれだけ毎晩、陣内さんのことばかり考えてると思ってんの」
「ありがとう、静。五分経ったみたいだから、帰ろうか」
「………」
涙が出たのは計算じゃなく、本当に胸が詰まって苦しくなってしまったからだ。
倉内が慌てて目元を拭っても、後から後からどうにも止まってくれないで頬を濡らしていく。
俯いた。怖くて、顔が上げられない。
いつもギリギリのところで我慢している何かは、こんなにも簡単に崩れてしまう脆いもの。
暫く経ってようやく落ち着き、泣きやんだ静にこれまた、何とも言い難いコメントをするのだ。陣内は。
「女の涙は最強の武器と言うけれど、静に泣かれるのも弱るね」
「陣内さんの、不意打ちほど凶悪じゃないよ…」
反撃というよりは随分と弱々しい本音が、唇から零れる。
「不意打ちというか、私もそれほど我慢強い男じゃないだけさ」
「陣内さんのそういうとこ、好きだけど嫌い。ねえ、多分陣内さんより僕の方が先に、我慢できなくなると思うよ。その時は知らないから」
倉内ははっきり宣戦布告して、苦笑する陣内を真っ直ぐに見つめた。
いつかこの憎たらしい余裕が、他の何かに変わっていくといい。どんなに、時間をかけてでも。その為の作戦も労力も、できる覚悟は十二分に倉内にある。おそらく、勝算も。
「それは困るな…」
「伊達に毎日鍛えてるわけじゃないから。じゃあね」
元々走るのは好きだったから、陸上部を辞めた今も倉内は、早朝のランニングをしている。家に帰れば、筋トレも欠かさない。何となく習慣で続いているものだが、昔は華奢だった身体は大分、男らしいといって差し支えない体格になってきたような気もする。
その気になれば、陣内を押し倒すことなど造作もないかもしれない。
「…気をつけてお帰り」
その苦々しい挨拶に、倉内は声もなく笑った。
翌日酒臭かった陣内は、聞けば芝木と飲んできたようで…悩みの種が自分だというのは、嬉しいのかそうでないのか、倉内は複雑な気分になった。
そのうちいつか、喜びも幸せも与えられるようになればいい。
2006.08.04