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  2006.06.25


 インターホンの音。
 令治が部屋のドアを開けると、会いたくて仕方なかった文久が立っていた。その度にいつも一瞬驚いて、慌てて表情を作るのだが…元恋人にはバレているようだ。
 今日も少し苦笑を浮かべた文久は、令治に「暑中見舞い」だと言って、手に持っていた袋を差し出す。
「何?これは」
「令治って、すぐ夏バテするし。志賀くんに…最近痩せたって話を聞いたから。せめてアイスでも食べて、元気を出してもらおうと思って。箱買いして来ちゃった」
「ありがとう。もし今時間があるなら入って、一緒に食べてくれる?文久」
 おねだりすると、無防備に文久は靴を脱いで自分の領域にやってくる。それが嬉しいのか寂しいのか悲しいのか、令治にはよくわからない。
 令治に危うい部分があるのをよく知っている文久は、こうやってマメに様子を見に来る。本人はそんなつもりなどないのかもしれないが、きっと無意識のうちではそんな風に考えているだろう。
「この部屋、クーラー効き過ぎじゃない?風邪ひくよ。令治」
「寒いなら俺が、温めてあげるけど。文久」
「そうしてもらおうかな」
 その台詞が冗談のつもりなら、最悪に面白くない。悪趣味にも程がある。
 半袖から伸びた腕を令治が捕まえると、物言いたげな文久の目。
 牽制?情欲?
 無抵抗な唇を重ねる。簡単に押し倒される身体は、他の誰かの匂いがした。涙腺が緩んだのは、不可抗力だ。滲む令治の視界の中で、何ら変わらない綺麗な顔が優しく微笑む。
「今は何も考えなくていいよ、令治。僕に任せて」
 そんな残酷な命令を下す彼に、縋るほかに方法がなかった。
 主導権がどうだとか、触れられるなら何でも良かった。お互いの最低なところ。節操なしで、色欲が強い。そんなこと、よく理解している。
 別に、救いなんて求めてない。救われなくてもいい、傍にいてくれるなら。苦しいのに、幸せだ。多分、間違っているかもしれなくても。
 求めているのは、ただ…
「文久」
 好きだとは言えない。
 言っても言わなくても意味がない、伝わっているのなら。
「令治の熱で、僕をドロドロに溶かしてよ…」
「文久…」
 その傷だらけの身体を見る度に、どうしようもない気分になる。そんなに痛めつけて、痕を残して…なのに、捩れた感情が報われることはなかった。胸に残るのは、空しさだけ。

 ああ、死ぬほど気持ちがいい。きっとそれで、お互いに満足なんだろう。




  2005.08.08



 忘れもの


 夏風邪なんて馬鹿がひくものだ、と令治は思う。その状況に今自分が陥っているわけだから、きっと馬鹿は自分なのだろう。
 そこまで考え、ろくにまわらなくなってきた頭に令治は目を閉じた。
 手元に置いてある、体温計でもう計る気にもならない。こういう時に限って大抵、嫌な夢を見る。ただ喉が、乾いたと思った。

 冷たい何かが、令治の額に押し当てられる。ひんやりとした感触にうっすらと瞼を開けると、見慣れた姿が心配そうにこちらを覗き込んでいた。
 文久、と言葉にもならずに鉛のような手を伸ばす。確かめようと思ったのに、右手は力無くすぐ垂れてしまった。
 こんなところに、居るはずがない。ちゃんと、鍵も掛けていたはずで。これは嫌な夢の部類に入るのだろうかと、令治は茫洋とした思考回路で考える。
「大丈夫だよ、令治」
 優しい声がかけられて、汗をかいた髪を撫でられる。何が、と思った。何が大丈夫なのか。死にそうに辛かったが、このまま死んでも悔いはない。
 令治は乱れた息を吐きながら、もしそんな本音を告げればこの男は怒るだろう、と推測した。
「そばにいるから。安心して」
「信用できない」
 遠回しに告げることすらもはや、出来なくなっていた。ようやく出てきた言葉は、わかりやすく文久を傷つけてしまったようだ。
 困ったようにほほえむ、恋人だった男。恋人が他にいるくせに、どうしてこんなところに居るのか。どうせすぐ消えてしまうくせに、こんな風に優しくする。
 他に頼りたい相手など一人も思いつかない令治にとって、それは良いことなのか悪いことなのか、自分でも判別がつかなかった。どうでもいい、と思った。
 昔から、時折色んなことがどうでもよくなってしまう。それを何度も文久に咎められたけれど、その悪癖は一向に治る気配を見せない。もう、今では諦めてしまったが。
「少し、寝た方がいいよ」
「煩い」
 余裕綽々の態度が、どこまでも癇に障る。
 腹が立ち、令治は渾身の力を込めて文久の身体を引き寄せ、舌を絡めた。予想に反して求められるような熱っぽい口づけに、自分で狼狽える。何をしているんだろう、
 こんな時に欲情するなんてどうかしてる。馬鹿だ。そんなに好きなのか、…そんなに。めまぐるしく回転する頭に、体温も上昇している気がする。
 涙が出るのは、あんまり体調が辛いからだ。 
「おやすみ、令治」
「文久…」
「うん」
 ありったけの精一杯を込め、消え入るような感謝を伝える。
「ありがとう」
 反応を見るのが怖くて、令治はゆっくり意識を手放した。驚いたような表情をすることなんて、その感情の揺れなんて簡単に想像できるのだし。
 夢なのだろうか、あまりにも自分に都合がいいようなこの展開は。それにしては、あまりにも本物にそっくりだった。
 自分はどこまでも文久を必要としていて、別れられるわけなんてないのだ。恋人だの何だの、即物的な関係は抜きにしても。もしかしたらそれはお互い様だと、自惚れそうになる時がある。

 目が覚めて、まず寝汗のひどいパジャマが気持ち悪いと思った。
 身体を起こした令治の視界に、散らかっていたはずの部屋が整然としている事実に眉を寄せる。シャワーを浴びようと立ち上がり、キッチンにおかゆが作られていることに溜息を殺した。
 冷蔵庫にいつの間にか買い込まれている、清涼飲料水で乾いた喉を潤す。そのすべてが文久の存在を示していたが、どこかまだ信じられなくて、令治は自分の唇に触れた。
 人の気配に、大股で歩み寄り隣りの部屋のドアを開ける。甥っ子である京介が、驚いたように夏休みの課題を進めていた手を止めた。
 途端に脱力して、今度こそ令治は大きな溜息をつく。その態度に思うところがあったのか、京介は不満そうに唇を噛みしめていた。
「…京介。俺の寝込みを襲ったり、しなかったか?」
 我ながらそんな質問をするのも馬鹿馬鹿しい、とは思うのだが。現実の再確認は、必要だ。
 どこがいいのか甥である京介は、叔父である自分をそういう目で見ているらしい。不毛な話だ。趣味が悪い。他にいくらでも、まともな人間はいるだろうに。
「そんなことしたら、もう二度とここに来るなって言うよね。令治くんは」
「ああ」
「するわけない」
 わかりきった返事だった。
 自分でも経験してきたどうしようもない感情を終わらせる機会を、いつだって令治は待っている。おかげで慎重にならざるを得ない叔父への恋心に、京介は笑った。
「熱、下がった?」
「多分。計っていないけど…」
「薬、飲んだ?」
「もう治った」
 呆れたように、京介が肩を竦めてみせる。
「他人に移せば治るらしいから、そのおかげかもしれないな。誰か、見舞いに来ただろう?京介」
「令治くん、夢でも見たんじゃないの。うなされていたしね」
 そっけなく呟く京介からは、何の情報も読み取れない。こんな時だけ自分にそっくりな甥っ子に、令治は唇をとがらせる。
「夏休みの課題くらい、家でやれよ」
「そういう理由があった方が、安心するくせに」
「病み上がりに絡まないでくれ」
 シャワー浴びてくるよ、そう言って一方通行な会話を打ち切る。何か言いかけて、それがまるで言ってはいけないことのように、京介はそっと口をつぐんだ。 
 看病の合間に読んでいたらしい、来訪者が残していった文庫本を鞄の中に仕舞いこむ。





  2005.05.17



 喫茶店にて
 秋月は、志賀と向かい合い食事を取っていた。

「文久、京介の担任をしてるんだってね。全然、知らなかったよ」
「本人が言ったの?それ」
「他に誰が言うんだい。…いやね、プリントに書かれた字が文久にそっくりだったから。俺が聞いたら、京介も渋々答えたってわけだ」
「…志賀くんは、令治のことが好きなんだって言ってた。令治は彼のこと、どう思っているの」
「京介のこと?…気になる?文久」
「気になるよ」
「いいかい、文久。俺は、京介が生まれた時から、あいつのことをよく知ってるんだ。オムツだって換えたこともあるし。そんなケツに突っ込みたいとかさ、思うわけな」
「バッ…!食事中に何言ってんの!?もう」
「…今、俺にバカって言おうとした?文久」
「言おうとしたよ。もう、これから令治と一緒に食事するの止めようかな」
「食事しないなら、何するの?セックス?俺は、いつでもかまわないけど」
「……怒るのを通り越して、呆れてきた」
「バカって言ってみて、文久」
「バカ…?」
「いいね。そっちの道に目覚めそうかも」
「帰る」
「じゃあ一緒に」
「………」
「ごめん、久しぶりに会えて嬉しかったから。許してくれる?」
「…令治は、ずるい」
「自覚はあるよ。ごめんね、好きで」
「……ずるいよ」

 泣きそうな顔で俯く秋月に、志賀はほほえむだけだった。
 すっかりぬるくなった紅茶は、もう、手をつける気にもなれない。





  2005.04.13



 笑顔

 俺に散々汚された身体は、床の上に転がったまま微動だにしない。疲れて、眠ってしまったのかもしれない。何時間弄んだのか、記憶もない。
 寝顔は気に入らない。閉じた瞼は、俺の姿を映さないから苛々する。明解な理由だ。
 呆れるほどの独占欲は、どこからきているのか疑問だ。最初は、関係の始まりは確かに、愛だという自覚があったはずなのだけれど。どうしてこんなに苦しいのか、誰も何も教えてくれない。
「令治以外に、何もいらない」
   言葉なら、何とでも言える。そう馬鹿にしたら、目の前の男は家出をしてきてしまった。頬は殴られたのか腫れていて、つくづく要領が悪いと思う。馬鹿としか、表現しようもない。
 表情を伺えば、夢の中ですら泣いているようだった。欲情した時ですら潤んだ目は、そういえば暫く、笑顔を見ていないような気がする。気に入らない。笑えばいいのに。はにかんだような、淡い笑顔がとても好きなのに。
「令治」
 視線がうるさかったのか、肩のこるような姿勢のまま、文久が俺を見上げた。
「何、考えてるの?」
「文久のことだよ」
 上手く誤魔化された。そういう表情をして、文久は拗ねたように目を伏せる。
 嘘なんて、ついていないのに。どこでそんな擦れ違いが起きるのか、追求する気も失せる。文久の指が、柔らかいクッションに爪を立てた。それが全てを、表しているかのようだ。なんて、わかりやすいんだろう。何でもわかる、文久の思うことならば。
「信じていないの、ひどいなあ」
「そうなら、すごく嬉しい」 
 掠れた声音が、耳に届いた。
 素直でかわいい恋人は、どこか寂しそうに微笑んだだけ。こんなもの、笑顔とは呼べない。
 俺たちはどこでこんなにも、屈折してしまったんだろう。俺は眉をひそめた。
 もし今度、心から文久の笑う顔を見る時は…俺たちは、別れているのかもしれない。冷静に、そんな未来を想像する。俺は上手く、笑えないかもしれない。
「…令治?」
 他人の負の感情には敏感に、心配そうな温かい手が触れる。抱きしめられた。包みこむようなしなやかさを実感する度に、居心地の悪さが増すばかりだ。
 罪悪と、後悔と、愛情。どれか一つなら簡単に、今すぐこの関係を絶つことができそうなのに。
 物足りなくて、唇の中に舌を割り入れる。呼吸困難なこの状態のまま、死ねれば本望だとも思う。
「何でもないよ」
「うん」
 腕の中の身体が跳ねた。俺の一挙一動に反応してくれる、…そういう風に調教した。
 今日は少し虐め過ぎたから、今は優しくしてあげようと愛撫する。飴と鞭。苛立ちと、後悔。
「好きだ。文久」
「僕も、好き…」
 せつない告白を聴く度に、どこかが満たされるような錯覚を起こすのに。
 全然足りなくて欲しくなって、身体を重ねても寂しさは募るばかり。こんなはずじゃなかった。打開策もきっと頭では理解しているというのに、わざと傷つけ合っていつまで、こんなことは続くんだろう。
 こんなにずっとそばにいるのに、今更離れることなんてできるはずはないのに、頭をちらつく別れという未来はより一層、強い衝動となって文久の腰を揺さぶるに留まるだけ。
 俺のものだと何度も何度も痕をつけて、傷つけて、どうして満足できないでいるのか?
「あ、あ…っ」
 嬌声は確かにそそるものではあるはずなのに、
「どう?どんな風に気持ちがいいか、言葉に出して俺に教えてよ」
 一瞬の躊躇いと、羞恥。自分好みに仕立て上げたからなのか、それとも文久の持つ本来の性質なのか…こんな風に混ざり合っていると、何も見えなくなってしまう。
「文久。聞こえない」
 言葉にしないとわからない。
 この感情の行き着く先に、俺の求めている笑顔は、存在しないような寂しさを憶えた。




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