僕のリトル



 それ、はよく知っているような姿形で僕の前に現れた。

「何だ?一体…」
 女の子が幼い頃一度は遊んだ、かの有名な少女人形と同じサイズで。なんだか、怒ったような顔をして。
(小さい人間?いや、ありえないだろう。常識的に考えて…)
 それは僕の反応に、不愉快そうに眉を寄せ、僕の名前を呼ぶ。小さい声だったが、やはりよく知っているような響きをして、言葉は僕の耳に届けられた。どうしてなのか、ひどく心地良く感じる。
「どうして、僕の名前を知ってる?」
「オレたちは友人だったからね、名前くらいわかるさ」
(過去形?そもそも、僕にこんな小さな友人などいない)
「僕は、君のことがわからない」
「わからない振りをしているだけだ。今に思い出す」
 それは確信を持って、そう告げた。僕はなんだか不安になって、そう、さっきからざわざわと落ち着かない何かが胸の奥で疼くのに、その正体がわからなくて、僕は怖い。その恐怖の正体を確かめようとしただけで、身体が震える。僕はこんなに、臆病だっただろうか?
「お前がオレを呼んだ。だから、オレはここにいるんだ」
「何故?」
 どうして僕は、こんなおかしな生き物(?)を召還したのだろう。訳がわからない。何も、憶えていない。ただサイズが小さいだけで、その造りはリアリティを持った人間の男である。触ればきっと、弾力もあるのだろう。
「思い出せばわかるだろう」
 その一点張りで、それは座り込む僕のところまで近寄ってきた。
 僕は六畳一間の隅で、呆然と座っているようだった。今までは感覚がなかったので、それによって僕は自分のおかれている状況をおぼろげに、理解する。窓は閉め切られカーテンは下ろされたまま、電気も付けず真っ暗な闇。それでも何故か、それの姿はよく見えた。今僕の視界には、それしか映らない。他に何も見えない。
「喜べよ」
 それは偉そうに、そう命令した。
「何故?」
「お前の思い通りになった。お前は目的を達成したんだから、喜ぶのが正しい」
「そうなんだ。嬉しいな」
 言われるがまま、そう呟いてみた。少しも楽しい気分になんてなれないので、余計憂鬱感が増す。僕の目的は、何だったのだろう。よく憶えていない。友人だった、それは内容を知っているようだったけれど、例の如く教えてくれる気はなさそうだった。
 変な臭いがする。窓を開けて換気をしようかと思ったけど、動く気になれなかった。
 膝を抱えた僕のすぐ近くに、それがいる。何か言いたげで、心配そうな、悲しそうな目をしていた。
「言いたいことがあるなら、どうぞ。そういう顔をしてる」 
「言いたいことがあったのは、お前の方だろう」
 不思議なことを言う。
 言いたいこと?今の僕はとても空っぽで、何も言葉が出てこない。この小さな友人に伝えたいことでも、何かあったというのだろうか。そしてそれを聞いてやる為に、今、僕の前に現れたとでも?
「わからない」
「いつまでそうしてるつもりなんだ、馬鹿」
 呆れたように怒ってくれるそれは何故だか、愛情に満ちている気がして胸が詰まった。懐かしさが込み上げてくる。それと同時に喪失感が、幸せな感情を覆い隠すように僕の中にくすぶった。
(どうして、僕は…)
 涙がぼろぼろと零れる。どうしてなのかわからない、わかりたくない。思い出してはいけない、でも思い出さなければ…。僕は矛盾と葛藤に痛む頭を押さえ、うう、と呻いた。
「お前の馬鹿さ加減を慰めてやりたいが、もう、抱きしめてやれない」 
「ああ…」
 後悔が、後から後からせりあがってくる。魔法を使えるなら時間を巻き戻して、いや、
「喉が渇いているだろう?三日間、何も食べていない。パンでも焼いたらどうだ」
「そんなことは、どうだって、いいんだ」
 鼻水をすすりながら、僕は首を横に振った。これは都合のいい夢だ、そうでなければ僕は本当に狂ってしまった。狂っている、ということなら三日前の夕暮れが、その狂気の境だっただろう。鮮やかな情景が、甦る。僕より少し背の高い友人が、久しぶりに会いに来て言った。「結婚するんだ」と。それを聞いて、僕は―――…
「僕は、君を本当に好きだったんだ。誰にも渡したくなかった」
「その願いは叶ったんだ」
 僕は視線をずらし、血がべっとりと張りついた包丁が畳に無造作に転がっているのを見る。
「どうしても、堪えられなかった。君が他の女と結婚してセックスして子供を作って、そんな…こと……」
「お前は昔から、短絡的すぎるんだよ。オレをなくしたら、生きてなんていけないくせに。現に、今」
「だって、生きていく意味がなくなってしまった」
 昔からずっとずっとずっと、長い間ただ一人のことだけを想っていた。幸せになってほしい、と願っていたはずだった。祝福しなければいけなかった、晴れやかな未来に。
 こんな風に捩れてしまう前に、もっと早く、言えば良かった?そんな強さも勇気もなく、ただ、一番近くにいた…。ああ、なんて美しい日々だったんだろう。バラ色の青春時代、もう、二度と戻れない時間。
「そうやってすぐに泣く。オレはもう、お前の涙を拭うこともできないのに」
「うっ、ううっ……」
 優しい幻は、僕の態度に困ったように微笑む。
 きっと全部妄想だ。だって僕がこの手で殺して、君はもうこの世に存在していないから。怒り狂って罵るどころか、殺人犯を優しく慰めるだなんて、普通そんなこと、ありはしないだろう。どれだけ僕は自分勝手で、君を狂うほど愛して愛して、本当にどうしようもない…。罪深い片思い。
「いやだいやだいやだ…」
「しっかりしろよ。いつまでも、こうしているわけにはいかないだろ。目を覚ませ」
「僕は君と、ずっと一緒にいたい」
「しょうがない奴」
 その瞬間僕の世界は、眩しく光った。
 何ということはない、玄関のドアが開いて見知らぬ男たちが、僕を包囲したからだった。暗闇に慣れきっていた目は、大好きだった人の動かない身体をぼんやりと捉え、涙を流す。僕は小さい妄想を手の中に握りしめると、無抵抗のまま警察に連行される。すべての感覚が遠くて、何もかもどうでもよかった。

 僕とその小さな友人はそれから、ずっと一緒にいた。
 僕が話しかけるといつも決まって、それは昔と同じような返答を繰り返す。その度に僕は安心して、引きつったような笑顔を浮かべる。自然な笑い方というのを忘れてしまったので、僕を初めて見る人は、大抵の場合気味悪がった。
 頭がおかしいと判定されたけれど、そんなことはどっちだっていい話だった。コミュニケーションの取り方とか、ちゃんとした笑い方を忘れても、この思い人の姿を憶えている限りはずっと、大丈夫。僕は君を愛している。僕だけの君を愛している。それだけが、不確かな僕の確かな存在理由であった。


  2007.09.30


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