輝ける朝のために



 犬を飼っていて良かった。そう思ったのは、初めてだった。
 我が家における権力のヒエラルキーは、母、姉、父、犬、一番下層に俺がいる。俺は、ペット以下の存在…まあもう慣れてしまったし、人間の適応能力というのは割に馬鹿にできないもので、今日も逞しく生きている俺。
 犬…チャムが来てから、俺は早起きを余儀なくされ、散歩の役割を押しつけられた。けれど、早起きは三文の得。そのことわざを、俺は人生で初めて理解した。中学三年の、夏のことだった。犬種はちなみに、トイプードル。ぬいぐるみみたいで可愛いとは思う、だけど大抵は憎たらしい。
「可愛い!」
 その人は少女漫画から飛び出してきたような容姿をして、朝の光と共に俺の前に現れた。
(か、か、格好いい…!!)
 ジャージにTシャツ、ランニングシューズ。さらさらの黒髪に、何よりも端麗な美貌。チャムが何の遠慮もなく飛びつき、整った表情が和らいで余計に眩しく見える。
 嬉しそうにじゃれついてくる子犬に、彼は目を細めにこにこと毛並みを撫でてやる。犬になりたいなんて思ったのは初めてで、自分の思考回路に俺自身軽く引いた。一目惚れだった。
「お前、名前、なんていうの?」
「チャムです」
「チャムか〜。ほんと、ぬいぐるみみたい」
 多分、俺より年上だ。学生。背が高いし、適度についた筋肉が見惚れそうなほど美しい。
 男に対して使う表現じゃないのかもしれないが、彼は本当に美しい人だった。現実はどうか知らないけど、これが漫画の中なら多分、ファンクラブが存在して女子が牽制しあうような、人を惹きつけるオーラにあてられる。
「ランニング、ですか?」
「うん。日課なんだ」
「犬、お好きなんですか?」
「チャムは可愛いから、好きだな」
「高校生ですか?」
「そう。高三」
 それ以上の質問攻めはさすがに躊躇われて、俺はチャムと戯れる彼を見ていた。
「名残惜しいけど、そろそろ行かないと。引き留めてごめんね」
「あ、はい。いい日になるといいですね」
 彼は、爽やかに去っていく。
 俺はといえばこの日を境に、散歩の時間を決めて苦もなく早起きするようになった。単純である。チャムの世話も、進んで焼くようになった。チャム様々だ。

「おはよう」
「おはようございます!」
 今日も元気だね、と彼はおかしそうにくすっと微笑む。チャムが突撃して、もうそのじゃれ合いも目に馴染んだ。彼と俺は当たり障りのない世間話(今日は暑くなりそうだねとか、そういう類の)ばかり積み重ね、一ヶ月くらい経とうとしていた。彼はすぐチャムに夢中になるので、俺は蚊帳の外だったりする。
「中学の時に、女みたいって言われて…それがすっごい嫌でね〜。鍛えようって思って陸上部入って、それから習慣で、ずっとランニング続けてるんだよ。歯磨きみたいなもの」
 彼はそのような身の上話をして、俺は今の輝かしいイケメンオーラから想像もできない中学生時代に思いを馳せ、人間は変わるんだなとか、やっぱりどこをどう見ても格好良すぎるので、感嘆の溜息が出そうになった。
「全然想像できないです。だって、めちゃくちゃ格好いいじゃないですか…」
「でも外見だけ取り繕っても、好きな人には相手にされないっていうか。何?僕、精神修行でもしたらいいんですかって感じだよ!…まあ、それでも好きだから努力するしかないよね」
「いっぱいいそうですけどね…。俺みたいに、あなたのこと、好きな人」
「手強い相手なんだ。ポーカーフェイスどころじゃないし、意地悪だし、十歳くらい年上で、同性だし、なのに好きで」
「はい」
「この間なんて、触ろうとしただけですごい勢いで退かれちゃって…。力つけたいんだよね、逃げられなくなるくらい」
「…嫌われてるっていうか、その方、意識しすぎて過剰に反応しちゃうだけなんじゃないですか?ドキドキしすぎて死にそうで、触れ合うなんてとんでもないとか。まあ、乙女っぽい言い方をすればですけど」 
「そんな自惚れた発言をしてみようものなら、苦虫を百匹ぐらい噛みつぶしたようなしかめっ面で、君が何を妄想しようと勝手だが、それを口に出すのは恥ずかしいから止めた方がいいと思うね。なんて言われるに決まってる…」
「ユニークな返し方ですね」
「チャムくらい、素直に愛情表現してくれたらねえ。可愛いねえ、チャムは」
 彼も好きな人の前では、チャムみたいに尻尾を振って、甘えて、素直な愛情表現をするのだろうか。
(やっばい。泣きそう。な、泣くな!男だろ…)
 俺のなけなしの告白は見事に、多分、彼の耳をすり抜けていった。
 手強いどころか、俺はこの朝の景色の中ですら、ライバルの犬に負ける。俺では満たせない何かを、チャムが彼に与えているのだろう。なんだか、せつない。
 飼い主の気も知らないで、その腕の中に収まるペットが、無性に腹立たしくなってきた。でもその空気を読んだのかチャムはちらっと俺を見て愛嬌を振りまくから、何も言えない。
「そういうところも、好きなんでしょ。そんな顔してますよ」
「愛しちゃってるよね。ごめん、同性愛の片思いでノロケ話とか…。聞いてくれてありがとう。ちょっとへこんだことがあっても、君と話しながら、こうやってチャムのもこもこした毛を触ると、すごく元気になるんだ」
 あ、意外にも…俺がチャムより先だった。たったそれだけのことがどれだけ嬉しいか、鈍感な彼にはわからないだろう。
「俺はあなたを初めて見た時、少女漫画から抜け出たみたいだって思ったんですよ」
「それ、たま〜に言われるんだけど、僕は本当に普通の男と変わらないよ」
 睫毛が長い。目が合っただけで、息が止まりそうなほどときめいてしまう。それは、どう考えても彼が特別だから、だ。
 こんなにも格好良くて、一緒にいてドキドキできる人を、俺は彼以外に知らない。  
「あ、そろそろ…」
「あっ、ちょっと待って下さい!俺の好きな人の話も、聞いてほしいです」
「うんうん」
「その人、ものすごいいい男なんですけど厄介な恋をしていて、でもへこたれない努力家なんです。俺はこの恋のおかげで、毎朝早起きするのが苦じゃなくなったし、ペットとも前より仲良しになれました!」
 いくらなんでも、これだけ言えば気づいてもらえるだろう。
 俺のもくろみは見事成功し、彼はどんな反応をするのかと思えば、やっぱり王子様みたいな微笑を浮かべて告白の返事をした。
「君は、いい趣味をしてるよ。それじゃあチャムも、また明日」
 常日頃から愛の告白を受け慣れているとしか思えない、見事なかわし方だった。
 軽やかに走り去る思い人の姿が、滲む。大好きになれたはずの朝焼けの中で、チャムが俺に擦り寄ってくる。失恋した飼い主を慰めるその愛情に、今は思う存分泣いた。


  2007.09.29


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