ネコネコロック



 私は猫である、名前はまだ…ない。

「おじさんひどいよ。もう、僕に興味なんてなくなったんでしょう。こないだなんて使えない椅子だったし…本当、何でも拾ってくるんだから!」
「そう言わないで。ひどく可愛らしいじゃないか」
「可愛いなんて、僕以外にそんな褒め言葉使わないで!」
「君が一番可愛いよ。望」
「…ん……」
 私の新しい飼い主と、飼い主の同性の恋人は、私の目の前で濃厚な口づけを交わし始めた。
 痴話ゲンカも、セックスのスパイスくらいには役に立つらしい。
 私は丸くなって、喘ぎ声をBGMに瞼を閉じる。寝るのは大好きだ。久しぶりに、あたたかい寝床を確保して…私はとても、幸せだった。

 飼い主と恋人は、見たところ年が離れている。恋人は働いていないらしく、私の飼い主が朝部屋を出て行くのにずっと私と一緒にいた。観賞用なのだろうか、と考えてしまうほど造形こそきれいなその青年は、生活力が皆無で家事の殆どをしようとしない。一週間に三度くらいの割合で身体を繋いでいるから、観賞用というわけではないのだろうけれど。
「お前、首輪してるね。捨てられたの?可哀想に」
 飼い主がいない時は、何故か青年は私に優しい。一人で寂しいのかもしれない、強い性格ではなさそうだし。青年は私を抱きしめて、愛おしげに身体を撫でてくる。
 青年は知らないのだ。私を見つけた時、飼い主が穏やかな表情で、何と言ったのか。
 私は言葉を話すことはできないし、青年も私の考えをテレパシーで読み取ることなど、できはしない。
 飼い主は言った。「ねこ君を連れて帰ったら、あの子が喜んでくれるだろうか」。いい年をしてねこ君と呼ぶのはどうか、とか。どんな可愛らしいお子様が出迎えてくれるんだろう、と私は暫く夢想した。あの子というのは今、退屈そうに私を撫で回しているこの青年のことで、申し訳ないががっかりしたものだ。何せ青年は私を邪魔だと言わんばかりの目で睨みつけ、飼い主に散々文句を言ったのだから。
「ミャア」
「おじさんは、お前をきっと大事にしてくれるから。もう安心だよ、寂しくないよ…」
「ミャア…」
「寂しくなんか、ないよ…」
 この青年はどうして、ここで暮らしているのだろう。「僕も拾われたんだよ、おじさんに。あの人は何でも、見境なく拾ってくるんだから」。私の考えを読んだかのようにそう続け、青年は溜息をついた。
「あの人は、僕に名前をくれた。美しい名前を」
 確か、望だっただろうか。私が頬をすり寄せると、望はくすぐったそうに目を細くさせた。こうしていると、確かに可愛いと思わなくもない。
 孤独な人間を、私は本能的に嗅ぎ分けることができる。そして望は、そういう雰囲気を纏わせていた。飼い主は、望を放っておくことができなかったのだろうか。今の、私のように?

「みぃ、なんて名前はどうだろう?」
 しげしげと私を眺めて、望の身体をまさぐりながら飼い主はそんなことを言った。
「単純。それなら、ねこ君の方がいくらかマシじゃないの?もっとちゃんと考えてあげなよ」
「望のつけたい名前を、私は呼んであげたいと思っているのだが…」
「僕にネーミングセンスは皆無だよ。ゴンザレスとかになっちゃうよ、おじさん」
 ゴンザレスなんて、冗談じゃない…。
「ミャアアア」
「はは、すっごい嫌がってる!なあ、お前、人間の言葉を理解できるの?賢いね」
「おや…。おじさんがいない間に、二人はいつの間にか仲良くなったのかな?妬けるねえ」
 この恋人たちは仲がいいけれど、どことなく不安定な要素が見てとれる。
 その表現しがたい何か、が時折望にとって堪えきれないストレスになるらしく、私を抱いて彼はよく泣いた。私は事情こそ知らないが、ふさふさな毛並みで一時の慰めくらいの存在になら、なれるだろう。そしてまた、何かの後ろ暗い事情が、余計に二人の性欲を盛り上げていることも事実らしい。
 ある朝、望は私のことを、「みぃちゃん」と呼んで手招きした。こういうところが素直じゃなくて、でも望の可愛いところだとも思う。私は望にすり寄っていく。
「みぃちゃんに、僕らの関係はどう映るんだろうねえ…」
「ナーウ…」
「おじさんはいい年をして独り身でいるから、周りも心配しているみたい。こんなお荷物が転がっていちゃ、あの人の未来を邪魔してしまうことになるのかなあ。どう思う?」
「……………」
「おじさんには、幸せで慎ましい結婚生活が似合うよね。きっと…。あんな顔して、エロ魔人だけどさ」
 不倫の二重生活でもしているのかと思ったが、望がただ悲観しているだけで、私の飼い主は恋人を愛して大事に傍においているのだろう。
「僕も働く気はあるんだけど、君一人くらい養えるんだからそんな必要はないって言われて、聞いてもらえない。ほら、僕、俗に言う美少年てやつでしょう。厄介毎に、よく巻き込まれるんだ。出会った時だって、電車の中で痴漢から助けてもらって…。でもさあ、助けた本人が手を出しちゃいけないよね?ふふ」
「ミャア」
「僕が他の誰かに取られるんじゃないかって、心配でたまらないんだって。あの人頭いいのに、馬鹿だよね。僕は自分の意志でここにいるだけなのに、何か勘違いをしてるよね。でも、僕が弱くて寂しくて、おじさんがいないと生きていけないって甘えたら、あの人はすごく喜んでくれるから、そうしてあげるんだ。僕はおじさんを愛しているもの」
 望は私が思ったよりも、聡い人間であったらしい。両方ともが不器用なので、お似合いなような気もするし、もっと他に上手いやり方があるような気もする。
「ねえ、僕いいこでしょう?みぃちゃんは、褒めてくれる?」
「ミャア…」
「今度、お前に美味しいご飯を作ってあげようか。僕、本当は料理得意なんだよ。みぃちゃんと僕の、二人だけの秘密ね」
 それは、嬉しい提案だった。
 私はゴロゴロと望の胸元で甘えながら、好物のねこまんまを思い浮かべて目を閉じる。
 望が台所に立つ姿なんて、想像すらできない。たまに動いたと思えば、喉が渇いて冷蔵庫にお茶を取りに行くくらいなもので、飼い主からしてみれば私は抜け駆けするようで、それは確かに秘密めいている。
 私の名前はこのままいくと、安直なみぃちゃんで決まりだろう。前の飼い主は私のことを、つきあっていた彼女の名前で呼んでいたので、別れたと同時に私を部屋から追い出した。その心境は、わからなくもない。それに比べれば、はるかにいい名前に感じる。
「みぃちゃん、くすぐったいよ」
 今日は仕事が立て込んでいて、飼い主の帰りは遅くなるらしい。
 望はご機嫌な様子で、今日の晩ご飯は何かなあ、と首を傾げながらテレビの電源を入れた。
 年に数回ある特番は、行方不明になった家族を捜す、という趣旨のもの。私は何気なくそれを見て、ブラウン管の中に映る顔が隣りに存在している顔と、まったく同じだったので黄色い目を丸くした。知らない名前が、画面上に流れていく。私と目が合うと、望は微笑みを浮かべてすぐにチャンネルを変えた。その一連の動作には何の感情も、動揺も見受けられない。いつも通りの、望でしかなかった。

 私は猫である。名前は、みぃと名付けられた。


  2007.10.02


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