Call



 二年つきあっていた恋人に、振られた。
 男同士のつきあいだから、結婚という選択肢はない。彼には幸せになってほしいと思うけれど、今はただ、悲しくて辛くて何もする気にはなれない。眠れなくて、布団の中でぐずっていると不意に携帯が鳴る。非通知…。
 大抵はすぐに切れるその番号は、僕が手を伸ばすまでしぶとく煩く、鳴り続けていた。
「…もしもし」
「…………」
 無言電話。相手が誰か、わからない。
 こんな時に期待するなんて、馬鹿げてる。僕は、もう彼を愛していない。名前を呼んだら、違うという返事が返ってきた。なんだか変質者というよりは、何故か声に戸惑いさえ感じられて、何より人恋しい僕は切る気すら起こらない。
「あのね、愚痴、聞いてもらえないかなあ」
「俺でよかったら」
 僕の頼みもその返事も…お互いに、どうかしてると思う。
「恋人に振られちゃってさ、ちょっと、落ち込んでるんだ。慰めて」
 相手は悪戯電話を仕掛けてきた、友達でも知人ですらない赤の他人なのに。
 僕は事実を言葉に出し、不意に襲ってきた現実の喪失感に、少しだけ涙を流した。僕の嗚咽が聞こえたのだろうか、奴は少し沈黙した後、元気を出してください。そう、真摯な口調で告げる。
「二年もつきあってたんだよ。すごく、好きだったんだ」
「どうして、別れちゃったんですか」
「もう、好きじゃなくなったんだって。他に好きな人ができたのかもしれないし、僕に飽きただけなのかもしれない。どっちだって同じことだし、別に追求する気もない…。ただ、ちょっと長い間一緒にいたから、今、寂しくて」
「あなたは、一途な方なんですね…」
「ありがとう」
 誰にも話せない悩みを、奴に話すことによって、僕はほんの少しだけ救われるような気がしていた。一人で抱えていたくないのに、自分がゲイだと知っている人間は、ごく限られた数人しかいない。その数人に、こんなどうしようもない重さのような悩みの塊を打ち明けるのは、僕には躊躇われていたから。
 別に奴が誰でもよかったし、元彼という希望は一瞬で絶たれてしまった。僕の好きだった人は自信満々な人間で、言葉の端々からその強さが感じ取れるくらい。それが、奴の優しいような柔らかな物腰からは(電話越しだけど)異質なものしか感じなかった。
「恋人、どういう人だったんですか?」
「明るくて、太陽みたいな人。僕とは真逆の、違う世界に生きてるような」
 残像がまだ心の中に居残ったままで、ちょっとしんどい。
「ちなみに俺は、石のようだとよく言われます」
「何それ、頑固ってこと?ふふ」
 冗談なのか本気で言っているのか、奴はイマイチ判別がつきにくい。
 僕は素直に笑って、目尻の涙を拭う。もしかしたら、元気づけようとしてくれているのだろうか、と勝手な妄想を抱いたせいだ。
「融通が利かない、って…」
「君は若いの?こんなことをするなんて、考えられないような人間に思えるけど」
 詮索してどうするというのだろう、…ただの興味だ。
「…こんな、こと。真夜中の、悪戯電話」
「そう。僕に何か嫌がらせでもしたいのかと思ったら、違うようだし」
「俺は、あなたのことを知っていて…」
「それって、世間一般で言うストーカーってやつ?」
「それ…否定、できません。今、俺がやっていることはそういう行為だとわかってるから」
 融通の利かない、頑固な石みたいな男にストーカーをされる。…あまり面白い話じゃないな、と僕は思った。一体、誰なんだろう?奴は僕を知っていると言ったけど、僕が奴を知っているのかどうかは、定かじゃない。
 先日聞いた知り合いの話なんて、宅配に来たピザの兄ちゃんが嫌がらせをしているという具合だったし…僕は和食党だから、第一ピザなんて頼んだりしない。
 気持ち悪いと言って切ってしまえば、こんな不穏な出来事からいくらでも遠ざかっていられるのに。でも僕には、こんな悪質な悪戯ですら、気分転換として利用することくらいしか…今は思いつかないんだ。
「どういう意味?僕を好きってこと?」
「愛してます」
 急に、言葉は熱を帯びた。耳元で疼く愛の囁きに、僕は呆然とするしかない。
「誰?」
「ごめんなさい、言えない。でも、嘘はついていません。俺は、あなたを愛してる」
「僕のことが好きだったら、夜中の二時に、電話をかけてくるわけ?」
「あなたのことを考えていたら眠れなくなって、どうしようもなくなって、どうしているのか気になって…気がついたら」
「怖い話だな。これ、僕の妄想?夢?寂しさのあまり、とうとうおかしくなっちゃった?」
 誰かに愛されたい、誰かに必要とされたい、誰でもいいから、お願い誰か…そういう抽象的な願望が、こんないびつな形になって現れてしまったのだろうか。これは、良くない傾向だ。
「愛してます」
 急に、僕は怖くなってきた。誰なのかわからない愛の告白は、僕の耳にこびりつく。
「そんなこと、言われてもさ…」
「だから、お願いです。元気出してください。俺はただ、あなたに笑ってほしいだけ」
「君は誰なんだ」
 見ず知らずのストーカーじゃない。きっと奴は、僕の事情も全て承知の上なのだ。
 部屋を見渡しても、誰もいないのに僕はきょろきょろと辺りに視線を走らせて、溜息をついた。ただの、真っ暗な闇。静かな一人きりの夜、そのはずだった。
「俺は太陽の影に隠れた、真昼の月ですよ」
「わからないよ…。それがヒントだっていうのか?僕たちは、逢ったことがある。でも僕は、君を認識していない」
 あいにく僕は国語が苦手の、理数系。そんな謎かけめいた詩的な言葉で表現されても、何のことだかわからない。奴の声は落ち着いて、僕と会話しているせいなのか、どこか嬉しそうだった。
「そうです。だけど、今は夜になって俺のことが見えるようになった」
「わからない」
「終わった恋のことなんて、どうか忘れて。あなたはもっと、優しく大切にされるべきだ」
 奴は一体、誰なんだ?僕の何を、どこまで知ってる?
 僕は、携帯をギュッと握りしめた。汗ばんだ手は、冬だというのに熱を持っている。そこから何かが伝染して、身体中の感覚を麻痺させようとでもしているかのようだ。とんだ悪戯電話、僕はどうしたらいいんだろう?
「……………」
「……………」
 その時向こう側の音が、しんと静まりかえる沈黙の中で、確かに知っている声が…した。
「おい、お前一体何時だと思ってるんだ!誰と電話してる?さっさと寝ろ」
 僕は思わず恋人だった男の名前を呟いて、ただ、ドキドキしながら、反応を待つしかない。
 奴が、僕の名前を呼ぶ。それは確かに、僕の名前で間違いはなかった。
「はあ?どういう意味だ、ふざけんな。いい加減にしろ、貸せっ!」
 心臓が、早鐘を打ち始める。もう二度と連絡を取ることもない、友達にはなれないから…そう思っていた人間に、僕は口を開いた。
「…こん、ばんは」
 三日ぶりでもそのオレ様ぶりは、微塵も変わったところはない。そういうところも大好きだったとぼんやり思い、僕はかろうじて挨拶を返す。もうこの三角関係を、考える気力もない。
 これは現実に起こっていることで、どうやら奴の正体は僕の推理によると―――…
「尚人…?マジかよ、何でだよ!どういう、ことなんだ。オレら、兄弟で…」
 ひどく動揺した、声。一瞬、スッとした気持ちが自分の中に生まれたのを見過ごすことができない。僕は間違いなく、流れに巻き込まれただけのくせにしてやれたような優越感を、感じていたのだ。
 …奴の、真夜中の電話のおかげで。
「俺は、尚人さんを好きだ。兄貴にはもう、関係のない話だろうけど」
「馬鹿か。アイツは、お前のことなんて…」
 僕そっちのけで、兄弟は喧嘩を始めてしまった。

「ねえ、尚人さん。愛してます、愛してます愛してます愛してます愛してます愛して」

 電話はそこで、脈略もなく唐突に切れた。
 どういうことが起きたのか、多分、僕には想像がつく。まあ、二、三発は弟君は殴られているだろう。あれでも結構、あの兄は独占欲は強い方だったと思うし。これが原因で兄弟に溝が出来たらと一瞬心配してもみたけれど、どうせ、僕にはもう関係ない話だ。
 一つ、思い出したことがある。兄の部屋でセックスをしていたら一度弟が覗いていたとかで、ひどく兄が機嫌悪そうに、僕に話してくれたこと。もう一つ、玄関を上がり部屋に行く途中で、すれ違った時の弟の熱のこもった…視線。
 それらはそういうことだったのだろうか、とぼんやり合点がいって、もう時間も時間で眠くてたまらなくなった僕は煩わしいことと不安なことの一切を放棄することにして、目を閉じる。…まさか朝の起床まで、電話のコールで起こされる羽目になることも知らずに。


  2007.10.08


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