年の瀬3

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「何、それ?」
 思わずそう聞き返したのは自分のせいではないだろう、と御幸一也はそう思った。
「何って、だから、僕のおじいさんが東京にいるので、受験のときとか、何かいろんなことはおじいさんがやってくれたってことですけど」
 それが何か?とばかりに小首を傾げる自分よりもデカい図体の男を御幸はマジマジと見上げた。
 正月に御幸の実家に泊まった後輩を、御幸の家族はとても歓待してくれたし、御幸とまるで違うタイプの降谷は彼らには相当面白かったらしいから、正直な話、御幸は随分と楽に過ごすことができたから、この後輩が来てくれて助かったなあ、と思っていた。
 でもなあ?
「……そしたらさ。おまえ、正月ンときって、じいちゃんトコ行けばよかったんじゃねーの?」
 降谷の親も何も言わなかったよなあ、と既に記憶のかなたにある電話での会話を思い出す。
 降谷は何だかよく分からない、みたいな顔で御幸をしばらく見下ろした後、ああ、と突然、閃いたみたいな顔になった。
「そういえば、そうですね」
 でも、と続いた言葉に御幸は思わず笑ってしまった。曰く。
 だって、おじいさんのことを思い出す前に御幸センパイが誘ってくれたから。
 少し嬉しそうに口元が弧を描いていて、些細な表情の変化しかないくせに内面が駄々漏れの後輩の姿は、ちょっとだけ可愛いかもしれない。
「まあ、別に俺ンちの連中は面白がってたからいーんだけどよ」
 降谷が青道のエースであることを家族は知っていたし、捕手である御幸が投手というものを大切にしていることも知っている。
 知っていて、変に過保護に扱うことのない彼らに任せておけたからこそ、御幸は安心して気楽に正月休みを過ごせたわけだけれど、降谷自身も御幸の家でそこそこ楽しく過ごせたのなら、まあよかったんじゃないかな、と思う。
 降谷の口は重い。
 そのまま、無言のままにこの話題が流れても御幸は全く気にしなかった筈だ。でも。
「……僕も面白かったですよ?」
「そう?」
 御幸の部屋に集まった面々は、自分のやりたいことをやりながら、御幸と降谷の会話とも言えない程度のやり取りはしっかり聞いている。
 ただ。だからといって、別に聞かれて困るような話題が出ることもないし、それに多少の特別扱い感があったとしても、対象者が降谷なら特に文句も出ないだろう。
 周りもこの男のど天然さには慣れている。現にこの部屋の空気はツッコミモードから既に降谷なら仕方ないよなモードに変わっていた。
 そこでただ一人、ツッコミたくて仕方ないままだったらしい後輩がぼそりと大きな声で呟いた。多分、本人は呟いただけのつもりだ。
「……ずるい…」
「ああ?何か、言ったかー?」
 ゲーム機のコントローラーのボタンを激しく連打しながら、そいつの隣で倉持が更にデカい声で聞き返す。
 余裕で御幸に聞こえた声が聞こえていないわけがないので、沢村で遊ぶつもりなのだろう。
 その当の沢村はコントローラーのボタンをやっぱり連打しながら、何か口の中でブツブツ言っているつもりらしい、大きな独り言を零している。
 御幸は降谷に甘い甘すぎるだとか、つーかあの騒ぎは何だったんだとか、御幸の部屋に来ても自分は全然相手にしてもらえてないのにとか、結局は思っていることが外に駄々漏れだ。
 その同じ年末の騒ぎに付き合わされた倉持は、沢村のことをバカだなあ、という顔で見た。
「センパイ」
 この部屋にはそいつからしたら先輩だらけだろう、と返したらきっと冷たい目を返されるんだろうなあ、なんてことを考えながら御幸は沢村と倉持のコントの顛末を見ることは諦めた。
 呼んだのは降谷で呼ばれたのは御幸で、それはこの部屋でゴロゴロしている他の皆も分かっている。
「何?」
「……マッサージ、します」
 降谷の物言いは語彙が少ない分、真っ直ぐだ。
「あー、そう?じゃあ、頼もっかな」
 よく伊佐敷がそうしていたように、御幸は床にうつぶせになる形に横になった。
 エースにマッサージをさせるのか、と咎めるようなヤツはこの場にはいない。
 御幸たちの一代上のエースであった丹波なら絶対に投手の手を他人のためのマッサージには使わないだろうけれど、降谷にしろ沢村にしろ、雑草のような彼らにはそんな神経質さはどうにも似合わないものだ。
 それでも。それでも、いつかはこの手をこの腕をこの肩を、自分の意思で壊れ物を扱うように大切にするようになるのかもしれない。
 似合わねえなあ。
 プッと吹き出した御幸を咎めるように、一瞬だけ強く込められた力はすぐに抜かれた。
 気付けば沢村は妙におとなしくゲーム画面に向かっているし、倉持はご機嫌な様子だ。
 ほんの少し意識を離したあいだに何があったかなんて知らないけれど、あれはあれで仲のいい先輩と後輩の姿で、それを思うと降谷と自分のそれは先輩後輩というよりは投手と捕手の関係なのだろうか。
「……野球。僕に最初に教えてくれたの、おじいさんなんです」
 降谷の重い口から落ちた言葉は、いつもの彼らしく淡々としたものだった。
「東京にまだいたとき少年野球、少しやってました」
 なるほど、と思ったのはチームで仲間外れにされていたわりには投球フォームが完成されていたからだ。
 沢村のような存在はイレギュラーだ。
 まともな指導を受けていなかったことが沢村の場合、幸いし、基本だけでも学んでいたから降谷は怪物とも天才とも言われるような投手となれた。
 これが反対だったら降谷の投手人生は終わっていただろうし、沢村は何の面白味もない凡庸な弱小チームの投手で終わっていただろう。
 それとも。二人とも野球から離れていただろうか。
 御幸は野球のない人生は考えられない。それはこの青道野球部員の大方の連中、少なくとも一軍にいる者、一軍入りを狙っている者には理解できる感覚だろうと思っている。


     □□□


「……僕、すごく浮いてました」
 どうしてこんなことを言う気になったのか、降谷暁は自分でもよく分からなかった。
「少年野球のチームで?」
 聞き返してくる御幸の声は降谷を茶化すような感じではなく、ごく静かだ。
 降谷はコクリと頷いた。
 うつぶせになっている御幸が降谷のそんな仕種を見ているわけがなかったけれど、彼にはどうせ見透かされているのだろう。
「チーム、やめました」
 言葉は淡々と唇から落ちた。
 御幸の部屋にいるのは自分たちだけではなく、沢村と倉持のするゲームの音がピコピコと煩く、そのプレイヤー二人もさっきまで煩く言い合っていた。
 他にも先輩たちが何人かいる。
 御幸の部屋は本当に多くの部員が出入りする部屋だ。
「おじいさんは僕が本気なら味方だって言ってくれて……、嬉しかったです」
 祖父がいなければ降谷は絶対に家を出してはもらえなかったし、受験することも適わなかっただろう。
 ゲームをしている沢村が何か言いたげに振り向いて、すぐに倉持に頭を掴まれているのが見えた。
 もしかしたら、この話はしない方がよかったのかもしれない。
 御幸がはああっ、と息を吐いた。
「……おまえ、それってマジで正月はお祖父さんのトコに行った方が喜んでもらえただろ」
 呆れたような声で言われたのは、けれど、冬休みのときのことだった。
 降谷は首を傾げた。そうしてから、考えてみれば祖父は自分を可愛がってくれているのかもしれない、と思いついた。
 降谷の祖父は無口な人で恐そうに見えるからなのか、あまり親戚も訪ねていかないみたいだった。
 自分は御幸の家に行けて、どうやら浮かれていたのだろうか。
 手が止まった。
「今度からおじいさんのトコ、行きます」
 祖父のことは好きだ。けれど、御幸の家に行けて嬉しかったことは本当だった。
「ま、その方がいーな。でも、アレだ。おまえのお祖父さんとこが都合いいかは先に聞けよ?ホンットーは北海道の自分ちに帰った方がいーんだからな」
 御幸の声はいつもよりも何となく優しくて、しゅんと萎えた気持ちも少しだけ持ち直した。
 この人といると気分は上がったり下がったり、随分と忙しいことになるけれど、それにいちいちショックを未だに受けたりもするけれど、それはけれど、彼が自分に向き合ってくれているときであるということだ。
 ズルい。のだろうか、これが。
 考えてみたけれど、降谷が御幸の家に行って泊まったということが、もうズルいことなのかもしれない。
 ライバル心がメラッと頭をもたげた。
 降谷だって沢村をズルいと思うことはあるけれど、そんなことは口にしないだけだ。
 御幸の肩に置いた手は、さっきからちっとも動いてくれない。
 降谷の掌の下で、小さく御幸の肩が震えた。
「……?……」
 もちろん、勘違いなんてしない。
 クッと漏れたのは間違いなく彼の笑い声で、降谷は眉を顰めた。
 この人はいつも笑っている。
 それが周りを和ませたりするようなものであるわけがなく、かといって他意なく笑っている場面さえ殆ど見掛けない気がするのが、ある意味凄いかもしれない。
 御幸と同学年の人たちなら、下級生の知らない彼の顔を知っているのかもしれない。
 だけど、降谷は降谷だけしか知らない御幸の顔を多分、知っている。
「……何、いつまでも笑ってるんですか?」
 二度めだ。
 さっきも何を笑われたのか分からなかったけれど、今度は本当に唐突過ぎる。
 ここまで笑われなければならないようなことは言ってはいない筈で、それは倉持や沢村の胡散臭そうに御幸を見る目からも間違ってはいないだろう。
「違うって」
 心の中を読んだみたいに、笑い過ぎて潤んだ目で御幸がちらりと降谷を振り返った。
「んー…。何か、嬉しかったっつーの?」
「意味、分かりません」
 誤魔化しにかかられていると思ったから、ぴしゃりとそう返した。
 こんなの、いつものことだ。


     □□□


 むっつりと黙り込んだ降谷の手が、大切な投手の指が、御幸の肩をそっと撫でた。
 この男は他の誰よりも御幸のことをよく見ている。
 それがたったの十五歳で自分の野球人生を賭けた相手だったからなのか、それは知らない。
 御幸にとって降谷は自分の代の悲願を叶えるための駒であると同時に、青道のエースで、おそらくは将来のプロ野球界を担う存在にもなりえる逸材だった。
 そして、御幸の目には沢村もプロのマウンドに立つ投手になれる可能性が映っている。
 降谷の手が御幸の背中を辿り、少し張りを感じる場所で動きを止めた。
 唯々、投げることだけに飢えていた獣のような男が、自分の指先にすら無頓着だったこいつが、捕手の身体を気遣うようになった。
 青道での降谷の野球はまだ一年に満たない時間だけれど、本人に自覚があるのかどうかも分からないけれど、とても大きなものだったのは確かだろう。
 それは御幸自身もそうだったことで、目の前でゲームをしている倉持や沢村も同じだろう。
 降谷の指先はまだ幾分か怒っている、というか、少しばかり機嫌を損ねたままだ。
 笑ったのが悪かったかなあ、と降谷には見えないように口元だけで御幸は笑った。
 ただ、嬉しかったというのは別に嘘じゃない。
 投手が投手としての自覚を持つだけでは、エースとしては足りない。
 ゲームをしながらこちらを気にしている沢村だって、降谷さえいなければ間違いなくエースの番号を背負っていただろう。
 技量だけではなく、彼らはその心臓がエースとしての器を持っていて、一つのチームの同じ学園にこんな投手たちが揃ったのはチームにとっての幸運で、本人たちにとっては不運でもあり幸運でもあるのだろう。
 ただ。今は降谷が一歩、先んじている。
 今の降谷にはエースとしての自覚も覚悟も風格すらが備わってきている。
 御幸は正捕手で降谷はエースで、青道の正バッテリーであることは間違いないはなく、けれど、明日からエースは沢村に交代だと監督から告げられたところで御幸は自分が戸惑うことはないと知っている。
 それでも。
 そっと肩に触れる投手の指先は、もう春の頃が嘘のように手入れされている。
 それはいつか御幸が教えたとおりの、そんなエースとなるべき投手が行う手入れによって作られた、御幸のエースの指先だった。










降谷のお祖父さんが東京にいたらそもそも「年の瀬」は成り立たないんですけど、まあそれはそれで。ついでに知ったのが年を越してからってことでのこのお話です。冬に発行を延ばした降御再録本(特別な人。+泣かない人。+書き下ろしで発行予定)に世界観が繋がってるので織り込んで頂ければ。2013/10/27


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