えにし | Chiffon+

えにし

都合のいい夢を見たと思った。
数日前の夜、研究室に泊まり込む彼と別れて外に出る。
夕飯の買い物をしての帰路、やけに今日は荷物が重い。
そんなに買ってないのにどうしてかな?
いつもの家事、やらなきゃいけないことをやっているとだんだんと視界の隅から暗くなる。
この感覚には覚えがあった。
朦朧としはじめた意識にへたり込み、ああ、また何か風邪みたいなやつかな、とそこで自覚した。
どうしよう、明日の彼の昼食は。
意識は深い闇に沈んでいった。独りの寂しさが久しぶりに身にしみる。
そういえばここ最近は寂しい事なんかなかった。
霞み滲む意識でメールを送った。
お昼ご飯持っていけなくてごめんね。
きっと言われる、頼んでないと。
本当は会いたいだけの口実だから。

目を覚ますと返信があった。
冗談でも会いたいと言ってくれたことがうれしくて、つい期待なんかしてしまって、正直に風邪を引いたことを告げた。
けれど心配なんてされないということもわかっていた。それがより寂しさを募らせることになることも。
けれど誰かに知ってほしかった。もうだれも僕を知らないこの中で、メールをみるほんの数秒でいいから誰かに。
彼に知ってほしかった。
ああ、そうですか、で終わる事はわかっている。
お大事に、と返信が来ただけ、優しさを感じた。
受信履歴にのこる淡々とした言葉が、ああ、そういえば、この人は無視をしないでくれたんだな。


何か、もうそれだけで十分だ。


苦しい呼吸とからからに渇く喉。
そういえばさっき気づいたけどもうこうなって実は数日経っている。
ぐちゃぐちゃの思考はいつ何をしたかをばらばらに知覚していた。
時々そういうことはあったかな。
けれど子供の頃は母親が看病してくれていたから、そこまでひどく訳が分からなくなることはなかった。
今日ご飯食べたっけ?
色々とどうしたっけ?
寂しいよ。大丈夫。慣れてるから。寂しい。平気だ昔からだ。いやだ寂しい。お願い、優しくなんかしてくれなくていい。
誰か、気づいて。
寂しいよ。

せせら笑うように窓を風が叩いた。
僕がいなくても世界はなにも困らない。
静かに消えたとしても。
それはごく当たり前で、仕方がないことだ。
なのにどうして消えたくない。
寂しい。
なんてね。ただの風邪で弱気になって、馬鹿みたいだ。もう眠ろう。いつかはきっと、元に戻るから。治るから。
だから大丈夫。

「ちょっとじゃねえだろ……それ」
視界に入るのはいるはずのない人。愕然とした表情で僕を見下ろしている。
少しだけ怒ったような焦ったような声で言う。言えよ、友達いないのに。そんなようなことを言う。
ねえだったら君は、そんな友達のいない僕のところにどうして来たの?

待ってろと乱暴に閉まるドアと階段を駆け下りる音が静かな部屋に聞こえる。慌てなくても大丈夫だよ。そう言ってあげたくてももういない。追いかける事は今はできない。
独りって寂しかったんだ。
少しだけ泣けてきた。まさかあんな風にあからさまに心配してくれるとは思いもしなかったから。
出会って今までの日々を思い出してまた泣いた。
寂しくなかったんだと思えた。きっとこんな気持ちは都合よく忘れてまた寂しくなるんだろうけど。
嫌だこんな気持ち。どこで覚えてきたんだろう?
忘れていたんじゃなかったの?

玄関で音がした。疲れたのかな?急がなくてもいいのにな。
彼がこの気持ちの原因であろう事はわかっていた。
多分今は甘えていい時そんな時。
スプーンを差し出すまじめな顔が嬉しい。すごく苦しくて辛いけど嬉しい。
のばした手を普段は振り払う手を取ってくれた。
ワガママをひとつ。

目を覚ましたら彼はどうしているだろう?
やっぱりいなくなっているのかな?
何でもいい。夢でもいい。
それでもきっと僕は今日を忘れたりはできないのだろう。

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