おうちに帰ろう | Chiffon+

おうちに帰ろう

俺の家に物が増えてゆく。
最初はナイフ。桃を剥くからとフルーツナイフ。
次はタオル。ないわけではなかったけれど一枚増えた。
そして箸。どうしてか二膳。俺は一人暮らし。そしてまともに家に寄りつかない。
皿、茶碗、衣類、枕、まな板、机、その他諸々、そして。
「おかえりなさい」
先輩。
私物を来る度に増やしていく先輩自身。
「……ただいま?」
気まぐれに渡した合い鍵を返してくれる様子はなく、俺が帰ると先輩はいつもいる。
「ご飯できてるよ。あ、お風呂が先がいい?」
ニコニコしてエプロンをしてお玉を持った先輩がいる。
帰って鍵を開ける前に、自分の家に明かりがついているのだから、どうしたものか。
露骨に嫌な顔をするけれど、それにも先輩はずれた見解をする。
「ちゃんとカレーだよ! 今日はエビが安かったから海の幸カレーにしたんだ」
違うんだ。そこじゃないんだ。
まず何でいつもアンタはいるんだ。
そして当たり前のように風呂と飯を準備しているのはどうしてだ。アンタは嫁か。
「飯でお願いします」
「承知した」

「先輩、まさか俺ん家に住んでねえよな?」
食卓(これもいつの間にか増えた折りたたみテーブル)を囲んで夕飯を食う。
畜生、うまい。言わないけど。
「まさか。普段は自分の家に帰ってるよ。君が帰りそうな日に来てるんだ」
俺が帰る日に別段法則性はない。休日にもいないこともざらだ。
「予想が外れたことは?」
「今の所ないかな」
意表をつこうとして、帰るふりをして先輩の家を訪ねることがある。
しかし先輩はやはりいて、おかえりなさいと俺を迎えるのだった。
段々と薄気味悪くなってきたけれど、
「人目を気にしないでいいっていうのがこんなにも安心するとは思わなかったよ。ほら、僕は1人だと気にされないし。でも、学校で手をつないでいると時々奇異の目で見られるじゃない」
無邪気にそう言われて、薄ら寒さと共に悪い気はしない自分に気づいて嫌になる。
実際に奇異なのだ。知り合いに奇人扱いされていても俺ですら不思議がられる。
先輩はお前の何なの? と。まあ、至極当然の疑問だろう。
「だけど、家にいれば誰も見ていないから」
嬉しそうに自分のカレーをひと匙俺に向ける。
何ですか? 食えというのですか?
無視してみる。チビチビと自分の皿を片付ける。
ちらりと先輩を見れば、捨てられた子猫のように泣きそうな潤んだ目でこちらを見ている。
ああ、もう! 食えばいいんでしょ!
食ったら食ったで照れ笑い。大分幸せな思考の人だよな。
食うのが遅い俺の食事風景を嬉しそうに見ていたりして、居心地が悪い思いばかりする。自分の家で、これはねえよ。

夕飯が終われば先輩が後片付けをしている。
同時に何か作っている。
「お弁当箱出して。洗っちゃうから」
コンロ一台のミニキッチンでよくやるものだ。
おそらく弁当のおかずでも作っているのだろう。
鼻歌まじりの後ろ姿をぼんやり眺める。
先輩は俺のどこがそんなに気に入ったのだろう?
それで済まずに、どうして好きになんかなった?
ずっとぞんざいに扱っていたのに。
嫌みを言ったり、嫌がらせをしたり。
泣かせることもあるのに。
そして俺はどうしてこんな奴、自分のテリトリーに入れてしまうのだろう。
その問いかけの答はしっていて、敢えて自分にも嘘をつく。フェイクの気持ちを表面に浮かべる。
くやしいけれど、先輩のことは好きだ。いや都合がいいから好きだ。
そういうことにしたい。
自分の気持ちに耳をふさぎたい。

「お弁当冷蔵庫に入れ……」
「先輩」
先輩の言葉を遮る。軽い混乱と波紋が広がる心の水面と、自分でも不思議なまじめな声。
先輩の顔が見られない。
空になった皿が視界の端。
沈黙の中に冷蔵庫の動作音が静かに渡る。
ヘッドフォンの中音楽も聞こえない。
「どうしたの?」
沈黙を破った先輩の声は小さい。
「もう帰してくんない? 合い鍵」
どうして? と泣きそうになる先輩を想像していたけれど、先輩はうん、と一言の後に近づいてきて机に合い鍵を置いた。
「座れば?」
そう言えば先輩は座る。
のどがからからに渇いていた。
机の合い鍵を手にとってポケットにしまう。
ひと月ばかりの生活の思い出が最終回のダイジェストのように巡る。
不覚にも泣きそうな気分になるがそれはきっと感情の嘘だ。
泣くのは先輩の専売特許。
「あのさぁ……」
思い切って切り出した。
さようなら、驚きの日々。


「それだけ判るんなら迎えに来てくれよ、いっそ」
先輩を盗み見る。
大きく目を見開いてこちらを見ている。
あんまり見ないでほしい。
「プライバシーも何もあったもんじゃねえだろ。俺だって家で1人でいたいことあんだよ」
特別そういうことは実のところないけれど。まあ、誰かいたら邪魔かもしれない程度で。
「でも君はいつもひとりじゃない」
さみしそうに先輩が呟いた。
「じゃあ何だ? 1人遊びも研究室でしろってか?」
わざと下品に笑ってみせる。
「してるじゃない。僕がいてもゲームとか」
「そっちじゃねぇ」
「じゃあ何だって……」
あ、とつぶやいて先輩が黙った。
「そうだよね、若いもんね。何かごめんね」
先輩が何を想像したかはいいとして、少し気持ちに余裕が生まれた俺は、ニヤニヤと先輩を眺めた。
頬を染める先輩の顔が楽しい。
「ま、先輩が何とかしてくれるならいいけどな」
耳まで真っ赤に染めていく先輩の反応を楽しむ。
これからまた別の世界が始まるような、そんな予感。

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