ひとりふたり | Chiffon+

ひとりふたり

カタカタと鳴るキーボードの音と日が傾いて赤く染まった研究室。
僕は横顔をじっと見ている。
真横には謎の機械。うっかり触らないように息を潜めて側にいる。
ずっと見ていたいなあなんて思ってない。

唐突に彼が座ったまま背筋を伸ばした。大きなあくびをひとつ。
「帰ろっかなー」
思わず僕は聞き返す。
「えっ? ここに住んでるんじゃないの?」
「んなわけねぇでしょうが」
心底面倒くさそうな声で彼は言う。
「ずっとここにいるからてっきり……」
「まあ、そういう噂がたってるらしいがな。んなこたどうでもいいじゃねぇスか」
いつものように嫌な笑いを浮かべながら、彼が帰り支度を済ませている。
僕は少し迷ってから思い切って切り出した。
「僕も連れて行ってよ」
「は?」
冷たい声。
「お願い」
ため息。
「別にいいけど、もてなす気はねぇっスよ」
構わないと僕は何度も首を縦に振る。
そして研究室からでる彼の後を追う。
コンビニや本屋に寄って、電車に乗って歩いて、忘れられたような湿っぽい建物の階段を上がる。
僕は彼の手を取って歩いたけれど、途中で振り払われていた。
仕方がないから服の裾をつかんで歩く。
彼はそれを一瞥して舌打ちをし、けれど何も言わずに、振り払うこともしなかった。
彼が部屋の鍵を開ける。

「お邪魔します」
「本当に邪魔だぜェ。久々に帰ったっていうのによぉ」
そう言いながら、玄関のドアをしめた彼は、唐突に僕を背後から抱きしめた。
気配はあった。
逃れることなど容易いことだ。
「ごめんね」
彼のねじくれた言葉を受け取る。
「ごめんね、で済ませんスか〜?」
背後の彼は笑う。僕も笑う。
離れて靴を脱いで、あがりたければあがれと言われたのを聞いて、僕も靴を脱ぐ。
「夕飯でも作ろうか?」
ごめんねだけで済ませる気はないよという提案。
「いや、家包丁もないし。外食するからいいスよ」
「ないの? 不便じゃない?」
失礼して小さな台所を見る。
やはり小さな流しに水切り台が渡してあり、そこには皿とスプーンがひとつずつ。隣の電気コンロに片手鍋一つ。
そして炊飯器。冷蔵庫。マグカップ。本当にそれだけ。
何となく、何を食べて生きているか予想がついた、しかし。
「ねえ、でも料理できないわけじゃないよね?」
着替えるのかがさごそと服を脱ぎながら彼は言う。
「あんまり帰らないし。食うのどうせ俺だけだし」
面倒くせえ、と吐き捨てるように言った。
少し合点がいかなくてたずねてみる。
「女の子とかは料理を作りたがったりしないの?」

彼女がいたかは知らないが、散々嫌な奴呼ばわりされている割には、遊んでいるらしいことを誰かに聞いていた。いや、通りすがりに聞いていただけかもしれない。
「知らねェなぁ。家なんざあげてやりたくねえし。他人なんか」
パソコンを立ち上げる後ろ姿がどうでもよさそうに言う。
ふとした疑問がよぎった。
「あれ? 僕はいいの?」
やや間が合ってから、彼が振り返る。
「他人、にすら数えてねえから。先輩はせいぜい空気ってとこだな」
「ひ、ひどいよ」
しかし、いやいや、考えてみれば、空気はなくては生きていけない。
悪口に聞こえるけど、そういう意味じゃなかったら、もしそうなら少し嬉しい意味がありそうだ。でも彼だし、そんなことはなくて、普通に人として数えられていないだけかもしれない。
「とりあえず、いつまでも人の台所見てんじゃねェよ」
「あ、ごめんね」
あわてて彼のそばに行く。
そしてそれからどうしていいかわからなくなった。ただ突っ立っている。
彼はパソコンを離れて敷きっぱなしであろう布団の上に座る。
イスも物も一人分の家。
テレビのリモコンを取って、思案顔になる。
「座れば?」
ニタニタ笑って自分の膝を叩いている。
迷ったけれど彼の膝に
座った。こんなこと、いつもの場所じゃできないし。

「面倒くさくて最低限の物しか持ってきてないからな」
僕をぬいぐるみのように抱いたまま、彼はつぶやく。
「そうだったんだ」
「案外暮らせるからそのまんまなんだけどな。ベッドぐらいは買おうかと思うけど、必要なもんは大体あん中で事足りる」
そう言って指差したパソコンの周りに、堆く本が積みあがっていた。ファイルに紙束、そこは研究室の彼の居場所と変わりない。
初めて彼を見た日を思い出した。その次を思い出した。そして次の次。いつでも独りだった。
「さみしくはないの?」
彼は鼻で笑う。
「タムロってなきゃ死ぬのかよ」
そんなことはないけれど。独りはきっとずっとさびしい。僕が今年そうなったように。
悲しくても嬉しくても誰とも分かちあえないで。
「ちょっ、何でアンタが泣くんだよ」
無性にさびしい気持ちになった。
自分をとらえている腕に自分の手を添えた。
今度は振り払われなかった。
「僕は君が好きだから、君がいないときっとさみしくなるよ」
「そうかよ。俺は全然さみしくないけどな」
言葉と裏腹に腕に力がこもる。
膝の上の不安定なところで、僕は彼の顔の見える位置に体勢を変えた。
何でも良いから思いが届けばと願いながら、目を閉じて口づけた。
目を開いた時に見えたのは、ばつの悪そうな表情で夕日に染まる、彼の顔。

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