無限コース | Chiffon+

無限コース

 水泳部のないうちの学校のプールは、この時間はとても静かになる。さんさんと太陽が気に障るほどにまぶしく照り返しで足元は熱い。デッキブラシを持った俺は、一人でそんなプールにたたずんでいた。掃除当番なんかいつもサボって全く罪悪感もないのに、今日に限ってどうして掃除なんかしているのか、俺の中には俺じゃない様な気色悪い誰かがいる。こいつのせいで俺はここのところおかしなことばかりする。
 古く錆びたプールの扉が開く音がした。古い便所みたいな鍵は金網の扉では全く意味がなく、反対側からでも破られてしまう。季節が来る前に有刺鉄線でぐるぐるに巻かれていたのを思いだす。
「こんなところにいるとは。道理でみつかりにくいわけでござる」
俺も自分に有刺鉄線を巻いたら、いろんな面倒事は寄ってこないのだろうか。
「何でアンタが来んだよ」
「おかしなことを。他のみんなが来るわけがないでござろう」
面倒事を見てひっかきまわしてこじれさせて、そういうのはいい。でも、俺が面倒くさいのは嫌だ。今この人には会いたくなかった。嬉しそうに柔らかい表情でそばに寄るな。その手を取りたい。目に映っているのが自分かどうかを確認したい。
「パシリかよ。だっせ」
舌打ちをしてうち消した。水面の反射が先輩を照らす。この人にはこんな空や光が似合いだろう。打ち消しきれない心にいら立つ。どうしてこんなやつのせいでこの俺が。
「先輩、そこ立ってみ?」
先輩をコースの出発地点に立たせる。
「ここにいるとプールがきれいでござるな。もう拙者は今年プールの授業ないから入れないけど」
「じゃ、今泳げば?誰もいねえしいいんじゃねえの?」
笑顔で振り返りかけた先輩をつき落して、さっきまで先輩のいたところから見下ろした。カルキ臭い澄んだ水とは裏腹のドブ川みたいな淀んだ気持ちで、沈んだ先輩を嘲り笑った。水から顔を出したとき、傷ついた表情をすればいい。どうしてこんなことをするの、ひどいよ、とそう泣けばいい。そして俺にもう近寄らなければいい。俺の中のあいつなんて死ねばいい。
「あー驚いた。突き落とされたのなんて久しぶりでござる。なんか悲しいけど受け身とって痛くない着水するの上手くなっちゃったんだよ。まあ役に立つものでござるな」
顔を出した先輩は陽光のような明るさでけらけらと笑う。俺のほの暗い水底がごぼごぼと音を立てている。どうしていつもこの人は。手ひどい事をされて悲しみに突き落とされて、それでも誰も嫌いにならない。いらいらは泣き始めた蝉の声のように頭に響いた。
「先輩なんかにかかわりたくない」
その場にしゃがみ込む。傷ついたわけではない。立っているのに疲れただけだ。
「先輩なんかいらない。心の平静を乱して入ってくる奴なんて俺の人生に入らない。あんたなんか大嫌いだ。憎くすらある。あんたのやることにいちいち喜んだり戸惑ったりする自分なんかいらない。気持悪い。こんな思いいらない。先輩なんかいなくなればいい」
こんなことを言うようなキャラではないのに、泥沼から湧き上がってくる呪詛の言葉は溢れて止まらない。
「馬鹿だね」
先輩が笑った。下がり眉のその笑顔はいつからか忘れられなくなった顔。

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