パンドラボックス | Chiffon+

パンドラボックス

最初は誰かからの頼まれごとを終わらせるためにここに来ていたはずだった。先輩が俺に個人的な用事なんてあるわけもなくて、淡々と言われたことをそのまま伝えてその返事を持ち帰るだけ。
「先輩さ、俺に他に聞きたいこととかねェの?」
そう聞いてみたところで、何か変わるわけもなく。
「拙者が?特には……何もないでござるよ」
俺だけが先輩を気にするばかりだ。その理由は、考えないことにしている。俺には先輩に聞きたいことが色々あるような気がしているのに。
最初はそう思っていた。

「突然で申し訳ないのでござるが」
「何だよ、今度は誰からの何の仕事スか」
一人だけこんな人を気にするのなんか馬鹿馬鹿しいと、先輩に対して持っている感情を放棄しかけていた頃、オレを訪ねてきて先輩が言った。
「拙者と将棋をさしてもらえないでござるか?」
「個人的な依頼スか?」
ハイ喜んで!とかバカみたいなことを言いそうな気持ちを抑える。
「依頼……ではないでござるな。お願いかな。もっと砕けた言い方をするなら、一緒に遊ぼうと思っただけでござる」
努めて訝し気な自分を装う。
「はあ、別に構わねえけど」
構わない、なんてものじゃない。指先にじんわり汗をかいた。ここで返事を間違えて、そういうことを言うならもう遊んでくれなくていい、なんて言われるわけにはいかない。何とか円滑に、且つこんなことを考えていることがバレないように、先輩をここにとどまらせておきたい。こんなことで必死になっている自分が恥ずかしくてたまらないが、言わなければ、態度に出しさえしなければ先輩にはわかるはずがない。
「睦実殿と時々対局するのでござるが、ちっとも勝てないのでござるよ」
そう言って照れ笑いをする。去来する気持ちのことは考えないことにする。
「そういうことなら、付き合ってやるよ」
先輩と個人的な関わりを持てる日々が始まった。
 盤上を見ているときは俺の視線には気づかない。真剣なまなざしも、悩む様もじっと見ていられる。
わざと考えることが増えそうな手を考えたりして、時間を引き延ばす。その理由は考えない。
「昨日はあと一歩ってところだったのでござるよ」
「ああ、その話は聞いたぜ」
理由をどんなに考えないようにしても、本当は気づいている。
「明日は勝てる気がする」
「そうなったら、もうこんなに付き合わされないで済むな」
「貴重な時間を割いてもらってかたじけないでござる」
自分の望んでいないはずの気持ちに振り回されるのは嫌だ。どうにもならないしコントロールもきかないのに、そこに存在し続ける。ずっと顔を突き合わせていたせいで会話が増えて仲良くなったような気がしてしまうし、考えないようにしていることが育ってしまって見ないふりができなくなってきて、いつか表情や態度に出そうだ。知られてしまってもいいことなんかない。盤上の駒が自分の勝利を導くパターンはいくらでも考えられるのに、先輩に対して思っていることがいい結果を招くパターンは何一つ思いつかない。だけど。
「先輩はさ」
言わない方がいい気がする。
「何でござるか?」
聞かない方がいい気がする。
「楽しかった?」
想像する今後のパターン、どれもこれもがそう告げる。それでもできない。先輩がどう思っていたのかをかけらでも知りたいとくだらないことを考えてしまう。
「もちろんでござるよ」
そんな言葉だけで嬉しがる部分が自分の心に存在するのが受け入れられないのに、その喜びを欲してしまう。
「一緒に遊んで仲良くなれた気がしてたでござるよ。そう思ってるのは拙者だけかもしれないけど」
そんなことはない、と言おうと口を開く。声を出す前に先輩が遮った。
「言わなくていいでござる。そう思ってたい」
「いや、そうじゃなくて」
「お願い」
先輩の声が震えている。そんな風に言われたら。
頭が都合のいい演算を始めている。
「言わせろよ」
「聞きたくない」
「だから」
俺だって考えたくはないのに。
「駄目」
その言い方が、声が、震える肩が、考えを都合のいい方へと追いやっていく。
「だったら、言わないから」
心の迷いが、やめろと言う警鐘が強く心臓を早鐘のように打つ。そんな願いは口にしない方がいい。何もない今後のために。なんでもないただの先輩と後輩でいるために、同僚であるために、同じ場所にいるために。でも、さっさと言ってしまえと都合の良すぎる考えは言う。どちらかしか選べないなら俺は。
「もっとよく顔を見せてほしい」
穏やかで平和な何もない日常なんて望まない。
「……嫌だ」
爪跡を残せるなら嫌われた方がいい。その瞬間でもこちらを見るのなら。嫌だと言う先輩の目に自分が映っている。潤んで滲んで、それでも確かに先輩は俺を見ているし気にしている。もう後戻りはできない。何を言ったってもう手遅れのところまで自分を追い詰めないと、望みは叶わない気がした。
「先輩と一緒にいられて楽しかったし、嬉しかったけどな。普通に。ありえねえと思ってたけど」
「嫌だって言ったのに」
「顔を見せてくれたらって言ったじゃねえか。それがヤダってんだから言うだろ?」
言った通りのことをしただけだ。何も間違っていない。
「でも、予想してた答えじゃなかった」
ぽつりとつぶやいて泣きそうな声が続ける。
「……どうしよう」
戸惑いと何かに打ち震えるような声で問われる。それならば。
「戸惑いついでに追い打ちかけてやるよ」
心を揺さぶるだけ揺さぶっていくのが一番自分らしい。
「うん」
何かをあきらめたように先輩が子供のような返事をする。
「先輩のこと好きだぜ」
「それは」
先輩の思っている通りだと言おうとして、それでは通じない気がして考える。自分を追い込んだしここまでよく頑張ったと思う。こういうことは本当はあんまり慣れない。本心なんてあんまり言ってて楽しいものじゃない。恥ずかしくていたたまれなくてたまらない。よくわからないジタバタした気持ちでじっとしているのがつらい。どこかがむずがゆいような感覚があるのにどこで起こっているのかわからない。
「少しくらい察しろよ」
こんな人のせいで。でもこんな人だからだ。人に説明できるような理由は何もないけどこの人のことが好きだしもっと近づきたいしここにいてほしい。自分すら説得させられなくて考えないようにしていたことだ。
「……うん」
「こんな思いさせたんだから同じ思いすればいいと思うんスよね」
せめてもの仕返しに。
観念したように近づいて来た先輩が俺の腕の中で泣き出すのを聞きながら次の手を考えていた。
素面でできそうなことはもう何もなかった。

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