いくじなし | Chiffon+

いくじなし

「じゃあ今日の所は帰るでござる」
昨日も聞いたような気がすることを言って、先輩が俺の顔を覗き込む。作業に集中していなくなったことにも気づかないことがあったからか、自分が帰ることを大きめにアピールしてくるようになった。だからと言って俺が何か変化を感じることは特にない。
「あっそ。じゃーな」
毎日の用に来るのに居座らないで毎日律義に帰る理由を知っている。
ひらひらと手だけ振って、帰ることは分かった、という意思表示だけをした。
何か作業に熱中しているように見えるかもしれないが、本当はそんなことはない。
今日も何もできなかった。そんな自分に落胆したり、見送ろうかどうかを迷っていたり、そしてまるでそうやって先輩が帰ることをさびしがっているような自分を気持悪がったりしている。のたうちまわりたい。とても、こんな自分が、受け入れられない。
先輩と俺に何が起こって、どうしてこんなことで思い悩んでいるか、なんてことは今別に考えることではないが、先輩は俺のことが好きだと言っていた。
珍しく飲みに誘われて、ちょっと変な空気になった時にポロっと言った。
正直飲みに付き合ってやってもいいくらいには好きで、何となく向こうもそうなのも知っていて、あと何か一つでもあれば、という雰囲気でずっといた。
もしかしたらうっかり口を滑らせたようなあの時の告白も、先輩なりに何か覚悟をして言ったことなのかもしれない。
じゃあ付き合っちゃえばいいんじゃね?とか、軽く言って笑っていられるような自分だとずっと思っていた。軽いノリでどうにかできて、余裕でいられると思っていた。
「あ、ちょっとだけ、考えさせてください。でも、なかったことにするのはなしで」
しにたかった。カタコトになりかけて表情があからさまにひきつる自分に平手打ちでもしてやりたくなった。情けなくて泣きそうだ。
「承知した。なかったことにするのもなしなら、拙者なりに努力しているのはいいのでござるな」
「は?」
間抜けな声が出る。
酒と雰囲気のせいかどことなく妖艶な笑みを浮かべる先輩は、ここぞという時にヘタレている俺なんかよりずっと度胸があるんだろう。
「ご、ご自由に」

そんなこんなでご自由にしている先輩は、それ以来ラボによく顔を出す。
そばにいたいだけだから気にするな、と先輩は言うけどそんなの無理に決まっている。天然なのかそれを狙っているのか何なのか、多分それが先輩の言う自分なりの努力なのだろうけど。
俺は先輩のことを気にしてないし放っておくし、忘れてしまう。そう言い聞かせて毎日過ごしてみたりしているが、先輩が帰るとこうやってダサい後悔で頭を抱える羽目になる。頑張って別のことをして先輩がいなくなるのを見届けないようにしていたのにそれもできなくなって、ぐるぐると眠れない夜を過ごす日々がここ何日も続いている。
まあ、もともと夜に眠るとは限らなかったのだが。
「でも昼間に来るんだよな・・・・・・ドロロ先輩」
思い悩んではいるものの、先輩には会いたい自分にムカついた。

こんな下らないことばかり考えるなら、起きていてもつまらない。
寝支度をしながら機械の電源を落として回る。背後に気配を感じる。幽霊も出るし別にそれはどうでもいい。
「あの」
小さな声。
「あ、あの、クルル殿」
振り返ると帰ったはずの先輩がいる。
「アンタ何でいるんだよ」
何かを言い淀んで、気まずそうに目をそらす。もうずいぶんと遅いし、この人ならきっともう寝てる時間。
「一度帰ったのでござるが・・・・・・」
困ったようにそう言ってから、決心したようにその場に座る。背筋の伸びた正座。
「聞いてほしいことがあるのでござる」
「な、なんだよ」
ぺしぺしと先輩が床を叩く。座れってことか?突然何だってんだこの人は。
よくわからない状況は、今どうすることが最善なのかをわからなくする。とりあえず大人しく座ってしまった俺はもう、この人の話を聞くしかない。
「拙者の負けでござる」
「は?」
「もう限界でござる。努力でどうにもならないと思い知ったでござる。だから、ごめんね。迷惑だったよね?あんなこと言われて、先輩だからはっきり断りづらかった、とかそういうことなのでござろう?」
「待て待て、何のことだァ?」
目に涙をいっぱいためている表情に戸惑う。こぼれたらうっかりぬぐってしまいそうだ。
「この間のこと、考えさせてって言っていた答えを今聞きたいでござる」
来てしまった。そのうちいつか聞かれるだろうとは思っていたけれど。
どうすればいいのかを考える。目の前に思いつめて泣きそうな先輩がいる。それだけで冷静な判断ができない。動揺を必死に隠すことで精いっぱいだ。そしてこの、大きく誤解しているようなこの人に、何を言うべきなのか言葉が全然出て来ない。
ただ一つわかるのは、ここで曖昧に返してしまうと、もう先輩はここに来ないということ。きっとあのとき言っていたことを、俺を好きだと言っていたことを、なかったことにしてしまう。
それならば、今することはただ一つ。
ひとつなんだが。
「何で今聞きに来た?」
どうにか遠まわしにしようとする問い。本当はもう、どうしようかなんて決めているのに。
先輩が答えようとする。
「やっぱいいや、あとで聞く」
「クルル殿?」
「どっから話せばいいんだろうな」
「結論からで」
「ああ、結論ね。好きだぜ、ドロロ先輩のこと。わりと、最初の方から」
そういうことを言った後は、どんな顔をして何をしていりゃいいの?
「本当に?気を遣って言ってない?本当?」
「何で先輩なんかに気を遣わなきゃなんねーんだよ」
「そうでござるな。クルル殿はそういう人でござった」
「で、聞かれたことに答えってやったんだけどよ、満足したか?」
「それは、どういった意味で」
「聞いて満足して、帰んのかって」
手を伸ばす。あっさり捕まってくれたこの人の体は思っていたより熱かった。
「帰らないよ。こんなこと聞いちゃって、帰れるほど子供でもないし、枯れてもいないよ」

結局のところ、俺はヘタレっぱなしだったような気もする。
考えれば考えるほど気恥ずかしいし、これ以上追及もしたくないけれど。
今日も先輩はラボにいて、俺はそれをほったらかして仕事をしている。たまに目が合うと、恥ずかしそうに微笑むのに、何かしらの感情を抱くのも悪くない。
多分明日もその次の日も、帰ることを告げてから先輩は帰っていく。
顔をのぞきこまれたその時に、することが一つ増えただけ、お別れのキスなんて恥ずかしいことをして、これからどうやって帰る先輩を引きとめて夜を過ごそうか、そんなことを考えているだけ。

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