甘ったれ | Chiffon+

甘ったれ

どこかで過信していた。僕は大丈夫だと。
僕の気持ちは僕のもので二人の関係だって僕にどうこうする権利はある。
触れられるのを拒むことに傷つく何かなんて考えていなかった。
「そんなにアレダメコレダメって言うんならもういい」
ポトリと落ちた墨のように歓迎されない言葉が染みを作る。
「別にドロロ先輩じゃなきゃダメってことないし」
僕はただ、なにも出来ずにその言葉が落ちていくのを見ていた。
やろうと思えばそこそこ何でもできると思っていた。
「クルル殿」
伸ばした手は、もう届かない。
「帰れよ」
伝えられずにいた言葉ももう届かない。
こぼれた水を戻すことは、僕にはできない。

何がいけなかったんだろう。
ラボを出て、出入り口でへたり込む。
居眠りをしていた彼に毛布をかけたことだろうか。否。
勝手にラボに出入りしていることだろうか。それも否。
好きだと言われても、いつも曖昧に笑っていたことだろうか。
何も好意なんて言葉で伝えてはいないのに、色々な好意や行為を受け入れていたことだろうか。
そのくせ何かを求められてもはずかしがってばかりいて、いつも結局は彼に全て言わせていた。
表で手をつながないで、好きとは言わないで。誰にも内緒にしていて。変なことしないで。
歩み寄らなければいけない色々があるのに彼ばかりに歩かせていた。
……そんなこと、わかっていたんだ。
思いたかったんだ。もしもこれが彼の気まぐれだとしても、僕はいつでも普通に戻れると。
色々なことに喜んで安心して嬉しがって、本当は誰よりも幸せなのは僕の方だったのに。
散々彼に素直じゃないひねくれ者と言っていた僕が本当のところ一番素直じゃなかった。
ごめんね。
君といる時間が何よりも本当は好きだよ。
こんなところで一人思ってみたって、彼には届かないのに。
振り返るラボの扉は、ひどく堅牢に見えた。
簡単に侵入できる。でもそれはもしかしたら彼が扉を開けていてくれただけなのかもしれない。
ずいぶん前から視界をにじませていた涙がとうとう零れ落ちた。
不意に扉が開いて、けっ飛ばされる感覚と誰かが派手に転ぶ音。
クルル殿が廊下で寝ている。
違う、僕に躓いて倒れている。
「だ、だ、大丈夫でござるか!?」
慌てて近づいて起こそうと手を伸ばして、ためらった。
今の僕は彼に触れてもいいの?
心配してもいいの?
毛虫が這いまわるような不安を覚えて立ちつくす。
のっそりとした動きで彼は起き上り、僕の方を見遣った。
厚いレンズ越しの目が冷たい。
「帰れっつったよな?」
頭から足先まで、視線が僕を撫で上げる。
何も言えない。
「いつから廊下はあんたの家になったんだ。つか何泣いてんだよ、みっともね」
べちゃりと転んだ君には言われたくない、とも言えない。
「……何か言えよ。見てんじゃネェよ」
何かって何を言えばいいんだろう。
ごめんなさい?それとも帰ります?
転んだことに大丈夫?って聞けばいいの?

「好きです」

混乱した頭で飛び出すのは、状況とつながらないそんな言葉。
「クッ……」
怯んだように後ずさる彼がどこかへ行ってしまう気がして、手を伸ばした。
掴み損ねて諦めかけて、それでもやっとで白衣の裾をつかんだ。
「ごめんなさい。でも好き。今までごめんなさい。
僕が甘えてた。自分の気持ちに向き合ってなかった。恥ずかしかったんだ。
クルル殿はいつだって僕に優しかったのに心のどこかでそれを受け止めるのが怖かった。
もう帰るから。これ以上嫌われたくないよ。でも、転んだのは大丈夫?」
何だかんだで全部言ってる。
「あとそれから、何だっけ。好き」
大きなため息。ぐしゃぐしゃと癖っ毛をかきむしりながら彼が言う。
「それはもう聞いた」
「あとごめんなさい」
裾を掴んだ手をひきはがされる。
「だからそれも聞いた」
もう何も言うことがない。手詰まりだ。諦めて立ち上がる。
本当にもう帰ろう。僕がまた彼を特別に思う前と同じにふるまえる時が来るまでここに来るのはやめよう。
きっとそういうわけにもいかないことがこれからたくさんあるのだろうけど。
彼の眼を見る。もう今言える言葉の返事は「それはもう聞いた」になるから何も言わない。
「俺、あんまりドロロ先輩のこと好きじゃねえス」
そうか。それならもう、仕方ないよね。
「なんつーか、ちょっと好き?くらいで。んーまあ……ちょっと好きくらいっス。はい」
歯切れの悪い言葉はまだ続く。
「だから、さっきは何て言うか寝てなくてイライラしてたと言うかその」
そろそろと近づいてきた彼に抱きしめられる。
ここは廊下だからこんなことはしないで。だけど離れないで。
「悪いとは思ってねえゼ?でもドロロ先輩じゃなくていいってのは嘘だな」
多分悪いと思っていないという言葉も嘘。
「帰らなくていい?」
「あーもー、好きにしろよ。でも好きにさせろよなー?」
その言葉にうなずいてから考える。伝わってると甘えないで何か言わなくちゃ。
たまには僕があるかなきゃ。
「もういくらでも好きにして」
いつもはこの通りに受け取られると困るけれど、どうか今日は受け取って。
結局の我儘。頭のいい彼に甘えてばかり。
今日はそれでも少し素直に伝えよう。

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