泡沫の毒 | Chiffon+

泡沫の毒

 先輩が俺の先輩なんかじゃなくてどこかの風の噂にしか聞かないようなそんな存在ならよかったのにと、本当はずっと思っていた。どうでもいい存在でいてくれないなら、いっそかかわりのない人だったらと。俺にしてはひどく弱気で怖気の走るそんな考え。
「大福を貰ったからおすそ分けにきたでござる。コーヒーに合うかどうかはわからないでござるが、息抜きにでもいかがでござろう」
コーヒーの湯気の向こうでほほ笑む先輩の顔を見ていたら、そんな鬱屈した思いもなりを潜めてしまう。ただただ悪くない時間だなんてそんなことを思う。甘すぎる大福も苦すぎるコーヒーも曇る眼鏡もどれも捨てられなくなってしまう。手を伸ばせば届くような距離にいて、もう少しで手が届きそうな位置で君のことは結構好きだよなんて言い出すこの人がいて。でも俺はそれをよしとする自分なんか到底受け入れられない。この時間を幸せな守りたいものだなんて思ってしまったら、今まで積み上げてきた俺というものはどうなってしまうのか。闇より光を見つめる目がずっと空洞だ。そこは俺がいる世界ではないから。
 手を伸ばしたい。この湯気の向こうに。届いたら持て余してうんざりしてしまうものだとしても、俺が俺自身を許せなかったとしても。伸ばした手を振り払われて、二度とこんな時間が来なかったとしても。
「全然手をつけていないでござるな、やはりこういうものは好みではなかったのでござろうか。それとも何か悩み事?」
少しだけ考えて俺は笑った。できるだけいつもの顔で、片頬を吊り上げて。
「両方だな。せめてもうちょっとコーヒーに合うもんにしろよ」
先輩も笑った。困ったように首をかしげて、いつもの顔で。
「忙しそうだから気分転換、と思ったのだけど、却って不愉快な気分になってしまわれたかな? 君の好みそうなものがよくわからなくて、もうカレー以外出て来なくて、どうしようかなって思ったんだけどカレーじゃない気がして」
先輩なんか勝手な人だ。勝手にこっちの疲れなんか心配して、おかしな気の使い方をして、一人で肩を落として。心配なんかしやがって。
「別にカレーでいいぜ?」
受け入れられない。しょんぼりするこの人に何かしてやろうとする自分を受け入れられない。
「今度からそうするでござる」
次を期待する自分を許してやれない。気持が悪くて吐き気がする。
「別に俺のことなんかほっときゃいいと思うぜ。健康管理なんか勝手にやるしな」
「そうだとは思うけど。君も大人だしね。でもそうしたいだけだから」
勝手にやらせてくれると嬉しいなんて言う。どうして構おうとするのか、この果てしなくいい人の顔をした先輩が、気を使っても構っても何も返って来やしない俺に。もっときっと同じことを喜ぶ輩はいるはずなのに。
「勝手にしろよ」
「ありがとう、あ、でもカレーばっかりはよくないし、やっぱり何か考えさせて。好き嫌いが多いなら、一緒にお茶受けを選びに行こう。君が忙しくないときに、いつでもいいよ」
次の約束なんかしたくない。自己嫌悪がもっとひどくなりそうだ。けれどこの提案に頷きたい。もっとこの人と一緒にいたい。嫌だ。こんな自分は嫌だ。
「嫌でござるか」
「好きにしろよ」
吐き捨てるようにそれだけ言うと、俺は先輩に背を向けた。冷え切ったコーヒーはひどく苦くて、いつまでも舌に残り続けていた。

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