君に落ちる



 1.

 僕はもう、死んだかと思った。
 別にこの世に未練がないから、いつ死んでもいいと思っていたけど(お父さん、お母さんには本当に申し訳ない)こんな死に方は苦しいから嫌だ。大嫌いな水の中で、溺れて死ぬとか。本当最悪。
 大体、僕がどうして泳げないかを回想すると幼稚園の頃―――…
「見砂(ミサゴ)、しっかりしろ!大丈夫か?」
 大丈夫なわけないだろ、見てわかるだろ。僕はもう、死にそうなんだ。日向(ヒュウガ)くんの逞しい腕に抱かれ、途切れそうになる意識の中、僕はそんな風に考える。
 やっぱりこう、日頃鍛えてる奴は違うね。我が校で水上のプリンスと呼ばれるだけあるよ、日向くんは。どんだけ怖い不良でも、日向くんのこと呼び捨てにしないくらいの人望と、その呼び名に相応しいビジュアル。ああ、世界の終わりで最後に喋ったのが日向くんかあ。好きな子なんていないから、まだいいのかな…。
「見砂?見砂っ…」
 お父さんお母さん、先立つ不幸をお許しください。


 2.

 目が覚めたら、保健室のベットに僕は横になっていた。
 僕の再始動した世界で、一番最初に目についたのは、爽やかな笑顔を浮かべる日向くん。  
「よかった!見砂が死んじゃうかと思った…。マジでよかったあ」
 くれぐれも説明しておくと、僕と日向くんは同じクラスではあるけれども、普段会話を交わすこともない仲だ。日向くんは、クラスの中心的存在で華やかなグループに属しているし、僕はどっちかっていうとオタク的な仲間とつるんでいるからです。相容れない…。日向くんて、僕の名字をちゃんと認識してくれていたんだなあ、とそんなことに僕は感動した。 
 どうして学校のプールで溺れかかっていたかというと、隣りのクラスの不良グループに目を付けられている僕は過剰なスキンシップのせいで、(そろそろイジメかもしれない)水の中に突き落とされたんでした。放課後、水泳部の練習が始まる前の隙間。まあ、一秒もあれば身体は水に沈むよね。
 あのデブ!死ねばいいのに。とぼんやり頭の隅で罵って、僕はようやく日向くんの存在を思い出す。
「ありがと、日向くん。助けてくれて」
 僕が笑うと、心配そうな表情が優しく微笑む。同じ男なのに、さすがプリンス。見惚れそうだった。
「人工呼吸なんて初めてだったけど、ともかく、見砂が無事でよかったよ」
「は?人工呼吸、してくれたん…だ……」
「まあな。まさか実践で使う時がくるなんて、何事も練習しとくもんだよな」
 ……………これはファーストキスにカウントして、いいのだろうか?いや、よくない。
「そ、そ、そうなんだ。ありがとう!」
「なんか顔色悪いけど、見砂、やっぱりどこか気持ち悪かったり…」
「んなことないよ。本当助かった〜死ぬかと思ったし!日向くんてすごいね〜ありがとう」
「………」
 挙動不審でごめんなさい。チェリーでごめんなさい。いや本当、日向くんが眩しいから!泣きたい気分です。あーもう、たかがこれくらいのことで僕は動揺しすぎじゃないのか?死にかけた恐ろしさよりも、ファーストキスの思い出が一生これか、っていう現実にせつなく胸を痛ませるなんて…。馬鹿、馬鹿、日向くんに謝れ!
「見砂?家まで送ってくよ。今にも倒れそうだし」
「平気平気。そこまで迷惑かけらんないし」
 情けないというかそんなのは、格好悪いにも程がある。
 僕も一応、男のプライドはかろうじて持っているんだし。…うん、持っているはずだと思う。
「女子が先生に報告して、正岡たち、暫く謹慎処分だって」
「ふーん」
 正岡とは、あのデブの名前だ。
 やられたらやり返せ!なんてバイタリティの持ち主ではない僕は、いつも適当にあしらったりあしらえなかったり。そういう適当な態度が、あのデブはむかつくんだっていつも言う。そんなの知るかと思うから、どうでもいいけど。
「見砂が気ぃ失ってさ、正岡の奴本気で焦ってんの。あれ、好きな子ほどいじめたくなるって心理かな」
 悪いけど、そのフォローは最高にフォローになってない。想像もしたくない、そんな心理は。
「そんな気持ち悪い話どうでもいいよ。正岡のことなんて。どうせ、そのうち飽きるから」
 もしかしたら先に、僕の我慢が限界にくるかもしれないけど。どちらにせよ、悩むだけ時間の無駄。勿体ない。
 気落ちしていない僕に驚いたのか、日向くんが感心したように続けた。
「…見砂って、物静かなタイプかと思ったけど。割と勝ち気なんだな。意外かも」
「ハハ。日向くんとまともに喋ったのって、これが初めてだもんね」
 同じ教室にいるというだけじゃ、なかなか接点は生まれない。僕も、積極的なタイプじゃないんだし。
「そうそう。それに、近くで見て思ったけど、見砂ってきれいな顔してるよな?繊細な感じっていうか…」
「いっやーそれはどうかなーよくわかんないっていうか違うと思うよ!死ぬかと思ったゆえの気迫みたいなものだって」
「俺、一瞬ときめいたもん。じゃ、また明日な。お大事に」
「……………」
 なんか僕、最近疲れているのかもしれない。今、耳慣れない言葉を聞いた。
 日向くんて何性?アルカリ性?そっちの人??そんな奴、二次元でしか見たことないよ、僕。いやいや、まさか。命の恩人に向かって、一体なんてことを考えてるんだ僕は。日向くんにあやm(r
「…帰ろ」
 今日は早く寝て、こんな出来事はさっさと忘れてしまいたい。
 

 3.

 忘れたいと思ったばかりなのに、僕の家の前で正岡が直立不動で突っ立っていた。
 道塞ぐなデブ、と思ったけど別に話すこともなかったのですり抜けようとした僕を、正岡が真剣な声で呼び止める。
「見砂ごめん!オレ、知らなかったんだよ…。お前が幼稚園の時に、」
「うっわ。それ以上言うなよ、馬鹿!思い出すじゃん!死ね!!」
 日頃温厚な僕も、この話題ばかりは耐えきる自信がなかったので、つい本音が出てしまった。
 僕に死ねなんて言う言葉をつきつけられたのが、初めてだった正岡はひどく表情を歪め、口をつぐむといきなりその場で土下座を始める。
「悪かったと思ってる。もう、お前に酷いことなんてしない…。誓うから、マジで赦してください」
「どうでもいいんだけど。好きにしたら?それじゃ」
 あまりに淡泊な僕の態度に(いや、いつも正岡に対してはそうなんだけど)、正岡は泣きだしてしまう。
 ええ、美しくないんですけど!泣きたいのはこっちだっつうの!!馬鹿じゃない?
 僕は呆然としてしまって、でもやっぱりどうでもいいから帰ろうとする。その腕を掴むな、ああもー…
「見砂ぉ」
「…はあ。もう、本当、勘弁して下さい」
 脱力しながら懇願した。
 あと数メートルでおうちに帰れるっていうのに、早く途中のRPGやりてーとか、なんか、もう。もうね?
「何やってるんだよ、正岡。見砂を困らせるのはやめろって。離れろよ」
「日向くん?」
 なんでこんなとこへ、家が近所だったなんて知らなかったけど…。僕がもごもごと続けると、日向くんは少し赤い顔になって、心配だったから、ごめん。別につけるとかそういうつもりじゃなかったんだけど!声かけそびれたら、なんか正岡がいて変な話になってるし…。
 そんな事情なら、もっと堂々としてくれてかまわないのに。変な日向くん。日向くんが慌てる姿を見るなんて、とても貴重だと思う。うん、自分でも挙動不審だったのは自覚してたし。
「あ、そうなんだ…」
 僕がいつもテンションが低いのはなんていうか、もう、そういう風にできているので仕方ない。
 一度ならず二度までも、僕は日向くんに助けられたのだ。正岡が、こんなイケメンに敵うはずがない。
「ひっ、日向くん!オレはただ、謝りたくて…。ちっくしょおおお」
 多分日向くんのオーラが眩しすぎたので、正岡は悔しさを吐き捨てて、明日へ走って行ってしまった。その気持ちは何となくわかってしまうような、わかりたくないような。…さすが、日向くん。
「大丈夫か?見砂。何もされなかった?」
「また助けてもらっちゃって…。ありがとう、日向くん」
 僕は感謝の気持ちを込めて、かみしめるように頭を下げる。
 顔を上げた時、日向くんの表情は表現し難い神妙なもので、僕は、きょとんとしてしまう。
「あのさあ、非常にこのタイミングで言いにくいんだけど。俺、見砂を好きになっちゃったみたい」
「えっ、それは幻想なのでは…」
 軽く引きながら、僕は冷静にそうツッコミを入れてしまった。他に選択肢はないし。
「そう思われても仕方ないよな。でもマジだと思うんだよな〜。もし見砂さえよかったら、新入部員から始めませんか?水泳部の。…水に慣れるついでに、俺にも慣れてよ」
「……………」
 
「見砂?」
 一瞬、意識が飛んでしまった。
 だから本当、水に触るとろくなことがないって昔から僕の中の定説は、今回も繰り返される。
「わかった!これ多分、溺れている間に見てる僕の夢なんだ。ごめんね日向くん、そんなこともわからないで…。
 そろそろ目、覚ますよ。今日は本当にありがとう、日向くんは命の恩人だよ!それじゃあね」
「あ、いや、(そんなに嫌だったのかな…)」 
 もう何にも振り返らずに、僕はいとしいいとしい我が家への門を叩く。
 家の前での会話はどうやら筒抜け(死にたくなった)だったらしく、妹が気味悪そうな顔で「お兄ちゃんホモなの?」と問いかけてきたので、僕は違うと答えておいた。
 テンションを上げようと思い、シャワーの後、部屋に直行。やることは一つ。楽しみにしていたRPGを繋げたら、ヒロインのアリッサたん(金髪魔女ッ子)が主人公とくっついてしまったので、僕はもう本当に、嫌な気持ちになってしまったのだった…。合掌。


 4.

 あの死線から、数日後。何故か正岡と一緒に水泳部に入部する羽目になった僕への、日向くんの歓迎ぶりといったらすごかった。
 …まずは、水につかることから慣れていこうと思う。話は、それからだ。


  2007.05.22


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