太陽流血



 空の色を眺めていると、時折毒々しい配色が浮かび不安な気持ちにかられることがある。今のように。好きな男と二人きりの空間。ピンクとは言わないが、せめてもう少し明るく迎えてくれてもいい。
「太陽が、血を流しているみたいだな」
「それは困りますね。誰も、手当ができない」
 真っ赤な夕陽にそんな感想を抱いたオレに、環は言葉ほど表情は変えないまま返事をした。
 先ほどから彼が熱心に読んでいる雑誌は、世界旅行誌であり、オレが与えたものだから文句を言いづらいのだが。それでも、何か一言言ってやりたくなるのだ。
「タマキン死ね」
 構ってほしいという欲求は、捩れきって小学生並みの悪態に。
「行野さんの方が先に死ぬよ。老衰で」
 この男の、厄介なところ。何でもないことと大事なことを、全部一緒くたにこうして並べてみせるところ。表情の変化に乏しいところ。短所ですらも軽蔑する理由にならない現実は、自分自身でさえ呆れる。
 年下のかわいげもない同性に、どうしてオレは夢中になったんだったかな。
 同期の同業者。オレ(行野 克己。ゆきの かつみ、と読む。本名)の文章は物事を斜めの視点で見ているのに対し、岡江 環(おかえ たまき)の世界は、至極素直だ。疲れている時に読むと癒される、らしい。らしい、と表現するのはオレの感想と世間一般の認識が少しだけ、違うからだ。
 環の小説は万人向けだが、オレの小説は賛否両論。それで結構、異論無し。
「オレが死んだら泣くよな?お前」
 そういう風に、相場は決まっているものだ。実は、環の泣き顔なんて見たことがない。一度覗いてしまったら、これ以上大事にできないくらい壊れ物を扱うような気持ちになりそう。傷つけないように、傷つかないように。…やっぱり、死ぬまでは見なくていい。
「号泣しますよ。身体中の水分が無くなってひからびて、あなたのところへ行けるように」
 照れもせず気障な答えを告げて、そんな想像をさせない様子で環は反応を伺うように視線を寄越す。
「本当に?」
「確かめる方法なんて、ないですけどね」
 上げて落とす。人の扱いが最高だ。正直というのは時に、美徳にはならない。特に、環の場合には…。オレはそう思うね!甘い嘘の方が、随分優しく感じるものだ。
「期待させるなよ」
「俺、期待には応えたいタイプなんですよ?」
 それ故に。空調の効いた一人暮らしの男の部屋で閑をつぶして、からかって遊んで。オレの気持ちを弄び、環は読み終えた雑誌を丁寧な仕草で机の上に戻した。仕事柄だろうか、環の書籍に対する姿勢は見習うべきところがある。
 気晴らしというよりは下心から、一緒に海でも見に行こうと誘った。濁りのない、エメラルド色の透明な海を。美しいものを見ると、創作意欲が湧く。そんなものは建前で、オレはただ、環の夏を独占してやりたかった。
 仕事中、オレが引きこもったり拒食気味になったり軽い躁鬱を繰り返す間にも、環は至って普通のリズムで生活を送る。まったくもって図太い神経の持ち主なので、この男がどうしたらオレだけを見てくれるようになるのか、皆目見当がつかない。
「キスをしたいが、眼鏡が邪魔だ」
 期待に応えたいというのと、欲望に従うというのは別物なのだろうか。そんな違い、オレにはわからない。
「飛行機が苦手だって、俺はあなたに言わなかったかな」
 求愛は見事に無視されて、やっぱりこんな奴死ねばいいのにとオレは思うのだ。そうすれば、心乱されることもなくオレに平凡な日々が訪れるだろう。慎ましく、恐ろしいほど退屈な平安が。
「それがどうした?怖くないように、手を握っていてやるよ」
「怖いとは言ってません。ただ、好きではないだけで」
 苦手を克服しろとまでは言えないが、譲歩くらいはしてくれてもいい。
 環の世界は明確で、たとえば白いものは白く硬いものは硬いのだ。この人間の馬鹿正直さときたら反吐が出るくらいで、融通がきかないし、なのにたまらなくそこがいとおしい。
「コンタクトにすればいいだろう。眼鏡を外した顔、悪くない」
「目の中に異物を入れるなんて、気持ち悪い。俺は眼鏡で不自由がないんだから、今の状態が丁度いいんです」
 この意見は、彼の世界観にも反映されている。環にとって気持ちの悪いものは、小説の中に登場しない。あくまでも一般的な物差しではなく、環視点での判断だが。オレにはそんな拘りはない。その方が、面白い気がするからだ。
 ただそんなことを考えながらページを捲ると、環を勝手に理解したような気になるだけ。
「そんな邪魔くさい衝立」
「取ればいい。あなたは、許可に行程を求めるけど。俺には必要ない」
 オレの口説き文句なんて、環の唇から零れる真実と比較すれば、かわいらしい子供の戯れ言。その言葉の魅力ときたら、凶悪すぎて殺されてしまいそう。
 ようやくお許しがでた。ああ、こんな無粋なもの。
 お互いの間を阻む壁を取り除くと、オレは唇を近づける。傍にいるともう、ほんの数分しか自制を保てないオレの愛情を、環は素直に受け流している。腹立たしいことなのか喜ばしいことなのか、この男を愛していることしか自分にもわからない。
 物事には順序や段階というものが必要で、オレは無用だと言い切る環の心情まで推理することはできない。
 オレの見る太陽は血を流すけれど、環はその傷を癒せないと言うのだ。


  2009.07.07


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