雨



 窓の外は、朝から静かな雨に降られたままだった。
 ぼんやりとガラスを滑っていく雫を見つめ、秋月は溜息をつく。気が重い。天気のせいだけではないことを自覚しているからこそ、ひどく憂鬱なのだった。
「最近、元気ないな。秋月」
 隣りの席の同僚、芝木 一生が秋月にそう声をかけた。同期の芝木とは、秋月は一番仲が良い。
 サッカー部の顧問で、爽やかな性格をしているので彼は生徒にも人気がある。
「そうかな?」
「ああ。梅雨って、嫌な季節だしな。五月病ならず、六月病ってところかな…。悩みがあるなら、相談乗るけど?」
「…ありがと。シバちゃん」
「おう」
 秋月はほほえむと、そっと目を伏せる。
 心ここにあらず、みたいだ。近頃ずっとこんな調子で、芝木は心配していたのだが。
(いつまでもこんなじゃ、いけないよな)
 それは、自分でもわかっていた。けれど、なかなかきっかけがつかめない。
 長谷川と飲みに行ってから、どうも体調が優れなかった。


   ***


 職員室にも教室にも居づらくて、結局向かったのは図書室だ。
 渡り廊下を進み、古い建物の中に独立して図書室は入っている。その特有の本の匂いや、懐かしいような雰囲気が秋月にはひどく落ち着く場所だった。
「あれ、フミちゃん?こんな時間に、珍しいね」
「倉内くん…。僕、一応国語の先生なんだけど?」
 秋月がそう脱力すると、倉内 静は可笑しそうに端麗な唇を歪めた。
 倉内は図書委員なのだが、大抵、毎日一人で貸し出しの管理をしている。男なのに妙な色気があり、倉内を目当てに通う生徒もいるくらいだ。それを秋月が知っているくらいだから、よっぽど彼はモテるのだろう。…ただし、同性相手だが。
「貸し出しカード、整理するの手伝ってよ」
「いいよ」
 カウンターの中に入り、倉内の隣りに腰かける。
「今日、いつもより人が多いね」
「雨が降ってるから。フミちゃんみたいに寄る人が、多いんだよ」
 静かな室内を見渡してみる。
 本を読む者、勉強する者、寝ている者、ヘッドフォンで音楽を聴いているらしい生徒まで。
「…こうして見ると、本を読んでる人ばかりじゃないんだね」
 慣れた動作でクラスごとに出席番号順にカードを並べていきながら、倉内は頷く。
「煩くなければ、何をしようが自由だから。そういう奴は、僕がここから叩き出すし。寝に来る奴とかいるよ、後藤真之とか。フミちゃんのクラスの生徒でしょ、彼」
「後藤くんが?」
「常連だよ。今日も、来るかもしれないね」
 意外なような、なるほどと納得できるような。とにかく後藤は、いつも眠そうなのだ。朝は大抵遅刻ギリギリ、授業中なんて睡眠学習ばかりのような気がする。まあ、他の科目の授業はちゃんと、聞いているのかもしれないが。
「噂をすればだよ、フミちゃん」
 倉内の視線を追いかける。静かにドアを閉め、欠伸をする後藤と目が合った。秋月の姿を目に留めると、不思議そうな表情で後藤はこちらへとやってくる。
 落ち着かなかった。
「センセ、静と仲良かったんだ?!…驚いた。ちょっと、眠気が覚めたかも」
「大声出すなら出て行けよ、後藤」
 倉内に睨まれて、後藤は大げさに肩を竦める。
「相変わらず、こえ〜。お前、オレとタメなくせにその高飛車な性格直そうとか、思わない?」
「しつこいな。叩き出すよ」
「へいへい。オレが悪うございました、っと」
 そんな二人のやりとりを見ながら、秋月は複雑な表情で口を開いた。
「僕の方が驚きだよ。二人とも、仲良いんだ?」
「「どこが?!」」
 二人の声がきれいにハモった。室内の生徒の視線を一斉に浴び、一瞬しんと静まりかえる。
 盛大に溜息をついたのは、後藤だ。
「…とにかく、全然そんなじゃないから。オレ、一寝入りしてくるわ」
「そうだよ、フミちゃん。冗談じゃないよ、勘弁してよね」
 倉内の嫌がりように何か言いたげに口を開き、結局後藤は諦めたように首を振った。
「……はあ。おやすみ」 
 定位置らしい窓際の席につくと、そのまま机に突っ伏して。
 五分ともたたずすぐに熟睡しているのがわかり、秋月は苦笑した。
「眠気が覚めた、とか言ってたのに」
「ホント。フミちゃんも大変だよね」
「大変て、どうして?」
 他意のない質問にも、ギクッと反応してしまう。
 倉内は秋月を見ると、なんだか意味ありげな笑みを浮かべて返事をした。
「授業中も、こうなんでしょ。後藤って?想像、つくから」
「あ、ああ…!そうなんだよねぇ」
「何の話だと思ったんだか?」
 独り言のように、悪戯っぽく倉内は首を傾げる。笑って誤魔化すしかなくて、秋月は手元の作業に集中することにした。
 しばらくして昼休み終了のチャイムが鳴ると、生徒たちはぱらぱらと室内から出て行く。
「フミちゃん、ありがとね。悪いけど手伝いついでに、後藤のこと起こしてもらえる?
 僕は、部屋の戸締まりをするから」
 その言葉に、なるべく平静を装い頷く。後藤のそばまで歩いていくと、そっとその肩に手をかけた。
 無防備な寝顔を見る度に、たまらなく胸がせつなくなる。好きだと思う、こんな時でさえ。
「後藤くん、起きて」
「…ん…」
「昼休み、もう終わったから」
 う、んとくぐもった返事が腕の中から聞こえるものの、一向に起きる気配はない。
「フミちゃん、甘いよ。ちょっとどいてて」
 見かねた倉内が、バンと大きく机を叩いた。手ではなく、室内に置いてある指し棒で。
 ビクッと後藤が跳ね起きる。秋月と倉内を交互に見、状況を理解したのかがっくりと息をついた。
「…秋月センセに起こされる夢、なんだとばっかり…」
「へえ〜。後藤、フミちゃんの夢なんて見るの」
「……………」
 揚げ足を取られ、後藤がいたたまれないような表情を浮かべる。
 仲が良いのか悪いのか、そういう後藤も珍しくて、秋月は楽しそうに笑った。
「アハハ、教室に戻ろう。後藤くん?次、古文だから」
「賛成。さっさと退散しようぜ、こんなとこからは」
「フミちゃん、いつでも遊びに来てね♪」
 にこやかな笑顔に見送られて、二人で図書室をあとにした。
 あんなに重かった気分は、どこかへ消えてしまったようだった。むしろ、上機嫌かもしれない。単純なものだ、ただ一人に何もかも左右されて。
「オレ、雨が降ってるとよく眠れるんだ」
 窓の外を見ながら、後藤が目を細めて告げる。
「ふうん?」
「あの静かな音聴いてると、なんか気持ちが落ち着いてくる。だから秋月センセの授業も、センセの声が気持ち良くて、つい寝ちゃうんだ」
 悪びれずそんなことを言うから、赤くなった顔を見られたくなくて秋月は顔を背けた。
「そういう言い方は、ずるい」
「ずるい男なんだ?オレ」
 屈託なく後藤が笑う。
「センセとこんな風に話せるなら、雨の日も悪くないかなって思うけど。先生はどう?」
(そんなこと、言われたら…。僕は)
 喉の奥が引きつれて、上手く返事ができなかった。
 二人でいるとこの感情を隠しきることができなくて、…すごく困る。
「さっき、職員室でシバちゃんに六月病だって言われたけど。これからは、雨の日が好きになるかもしれない」
(その度に今を思い出したら、憂鬱な気分なんてどこかへ飛んでしまうだろうな) 
 雨の音が強くなった。気まぐれな天気だ。
 煩く叩きつける雨が、何故か余計にこの場の静けさを増すように感じるなんて。
「うん。好きになってよ」
 思わず後藤を見上げてしまった、彼は雨を見つめたままだった。
「そうしたら、オレもきっと…」
 ふと何かに気がついたらしく、足を止める。つられて秋月も立ち止まった。
 後藤がす、と半袖から伸びた腕を秋月の前に伸ばす。指差して。
「センセ。教室、通り過ぎるところだった」
 苦笑して先にドアをくぐる後藤の横顔を、見ていた。
 チャイムの音に慌てて駆け込んできた生徒に、背中を押されて。教室に足を踏み入れると、秋月は静かに息を吸う。教壇の前に立った。 
 起立礼、の号令がかかる。後藤と目が合った。自然とほほえんでしまう、条件反射のように。
「教科書の二十一ページを開いて。加持くん、読んでもらえるかな」
 きっともう、雨の日は好きになっていた。


  2004.06.07


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