酒



 確かに頭はぼんやりしていたし、胃の中はひどくむかついていた。
 職員室に行くとまず、秋月と目が合った長谷川が眉をひそめた。きょとんと首を傾げる秋月に、こそこそと芝木が声をかけてくる。
「酒くさいぞ、秋月。昨日、何時まで飲んでたんだ?」
 眠い目を擦りながら、秋月は欠伸を噛み殺した。
「…そう?久しぶりに友達に会ったから、ちょっと羽目を外しすぎたのかも」
 一応シャワーは浴びたのだが、まだ臭ってしまっているらしい。
 そんな秋月を見て、思い出したように芝木はぽんと手を打った。何の食べ物の話だろう、芝木を眺め失礼にも秋月はそんなことを考える。
「そうだ。お前、陣内先生と飲みに行く約束、してただろう?」
「ああ、うん。…そういえば」
 あの時のことを思い出しただけで、冷や汗が出てきそうだ。
 後藤との噂は流れたりしていないし、長谷川との噂が一応、隠れ蓑にもなっているらしい。
(それから、後藤くんと倉内くんの噂も…だけど)
 憂鬱になる。しつこいくらい嫉妬して、不毛なことだとも思う。
「陣内先生が気にしてたぞ。どうだ?今日でも。俺も、一緒につき合うからさ」
「シバちゃんは、陣内先生と飲み友達なんだっけ…」
 確かにろくに話をしたこともないのに二人きりというのは、なんとなく気まずいものだ。その点芝木が一緒にいれば、心強いし場も和むだろう。
 何気なく秋月がそう口にすれば、芝木は神妙な表情で、考えこみ始めてしまった。
「まあな。あの人、タチ悪いからな。酔うとこう…な……。………ま、そのなんだ。どういう経緯で約束をしたのかは知らないけど、早めに終わらせといた方がいいだろ。面倒なことは」
「…シバちゃん、その妙な間がすっごい気になるんだけど。どんな人なの、陣内先生って」
「……………まあ、飲めばわかるだろ?嫌でも…あのな。今晩、空いてるか?」
「空いてはいるけど…」
 気が重くなってくるではないか。元来酒は好きというより、つきあい程度にたしなむくらいだ。
 秋月の不安をよそに、芝木は元気よく肩を叩いてくる。正直言って、少し痛いのだが。
「じゃあ、決まりな!田舎料理の美味い店があるんだわ。陣内先生にも言っておくから」
「うん。わかった」

 …確かに今朝そんな会話をした覚えがあるというのに、
 どうして今、陣内と二人きりでテーブルを囲んでいるのか秋月には、まったくもってわからなかった。

「こんばんは、秋月先生。今日は、楽しみましょうね」
「あ、あの。はい。よろしくお願いします」
 時間になると、急用ができたとかであからさまにぎこちなく、芝木は帰ったのだ。
 素知らぬ顔をしてはいるものの、陣内が何か言ったのかもしれない。やりそうな顔をしている。偏見二百パーセントで、秋月はそんなことを思った。
「芝木先生、秋月先生に何か変なことを吹き込んだんでしょう。何か、警戒されてる気がするんですが」
「いえ。乾杯しましょう」
「…乾杯」
 相変わらず、ビールがどうも好きになれない。格好つけず、サワーを頼めば良かったと後悔する。
 秋月はしかめっ面で、口直しのように甘い玉子焼きを喉に押し込んだ。
「新しいクラスはどうですか?もう、大分慣れてきましたか?」
「ええ、そうですね。陣内先生は…」
 とりとめのない会話。本題は一体どこにあるのか、気になって仕方ない。
 自分と何を話したいのか、陣内は。考えたところで、秋月にはわかるはずもなかった。
「私は毎日、代わり映えのしない日々ですよ。まあ、気に入ってはいますがね」
「倉内くんが居てくれるから、助かっているでしょう?彼、頑張っていますもんね」
 あの張り切りぶりといったら、見ていて微笑ましいを通り越して頼もしいくらいだ。
「…そうですねえ、頑張ってくれてはいます」
 焼酎を追加し、陣内は溜息をつく。
 その態度が何か、引っかかった。はっきりと、説明はし難いが。
「何か、問題でも?」
「あるといえばありますね…。こう言えば、あなたは気分を悪くするかもしれないんですが。後藤と静がつきあえばお似合いだと、勝手に思っていましたからね。私は」
「…ええっ」
 そんな話は初耳だ。まあ、ろくに話をしたことはないし当然なのだが。
 絶句した秋月に、複雑な表情で陣内は言葉を続ける。
「だから、あなたが後藤とつきあっているというのは…少し、計算外れ、とでも言えばいいんですかね」
「……はあ」
 そんなことを言われても、どう返事をしていいのやら。
「私も、困りました」
「困りました、って…」
(……確かに、陣内さんは変わっているかもしれない。シバちゃん…)
「静が、私のことを好きだと言うんです。私が冷たくして後藤に慰めてもらえれば、そこで恋でも芽生えるかと。…思ったりなんかしていたんですね、勝手なことですが。ですが、そういうわけにもいかなくなりました」
「倉内くんの好きな人は、あなただったんですか…」
 これは確かに、一筋縄ではいきそうもない相手。
 秋月は密かに同情を感じながら、図書室で仕事をする倉内を思い浮かべる。こういう理由が、あったのだ。好きな人の為だったのだ。彼が、必要以上に頑張ろうとするのは。
「そう、らしいです。いずれ、目が覚めるといいんですがね」
「陣内さんは、倉内くんのことをどう思っていらっしゃるんですか」
 何か、自分に協力できるようなことはないのだろうか。たとえば今この場の会話で、倉内のプラスになるようなこと…。
 秋月は、頭の隅で考える。
「かわいい生徒です。慕ってもらえるのは、悪い気分ではありませんし」
「好きなんですか?」
「まさか。…結局のところ私は、自分が一番好きなんですよ」
「そうでしょうか…」
 とても、そんなナルシストには見えない。
「ええ。平穏を、乱されるのは耐え難い苦痛です」
「倉内くんが大切だから、自分では傷つけないように…遠ざかろうとしているのではないですか?僕には、そういう風に感じます。陣内先生」
「あなたと同じにしないでください、秋月先生。私は毎日、静を傷つけているようなものですよ」
 笑って誤魔化されてしまう。
 外れてはいない気がするのに…、どこか、もどかしかった。
「でも、倉内くんは受け入れてくれているんでしょう?」
「子供の視野の狭さというか、思いこみというのは恐ろしく強固なものでしてね。何度も切りつけているというのに…。そろそろ、私も策がなくなってきたところです」
 陣内が受け入れるのが早いか、倉内が諦めるのが早いか…。考えたところで、二人の未来が秋月に読めるはずもない。倉内が諦めることは、想像もつかないが。
「倉内くんとつきあうんですか?」
「いいえ」
「倉内くんは、あなたのことをとても好きなんです。陣内先生」
 こんなことを話したところで、と思う。けれど何か出来ることがあるならば、少しでも、恋に協力できるのならば。
 そういった気持ちで真剣に秋月が告げると、陣内はとんでもない誘いを持ちかけてきた。
「…もう、こんな話は止めましょう。秋月先生、よければ今夜つき合いませんか?」
「……陣内先生!何を、考えているんですかっ。倉内くんのこと―――」
 思わず声が詰まる。他人事なのに、妙に悔しくて泣きそうになってしまった。自分が軽く見られることには慣れているけれど、倉内の気持ちを裏切るようなその、発言は。
 黙り込んだ秋月に頭を下げ、陣内は焼酎に口をつけた。
「すみません、あなたを試すようなことをして。謝ります。志賀令治を憶えていますか?私はあなたと同じ大学で、彼の同級生でした」
「え…」
「あなたは男なら誰とでも寝るような奴だと、そういう中傷的な噂が流れていました。それを、確かめたかっただけです。そんな人ならば、後藤とは静がつきあえばいいと…」
「陣内先生…」
 過去を悔やんで落ち込むことは、もう止めにしたのだ。
「どうやら、私の勘違いだったようです。流してくださいますか」
「陣内先生は、どうしたいんですか」
 秋月が問いかけると、陣内は困ったように蛸わさびを箸でつついている。
「自分でも、まだわかりません。結論を急ぐ気もありません。とりあえず、秋月先生と話をしてみたいと思った。だから、飲みに誘ったんです」
(それは、あなたが倉内くんを好きだからなのではないですか…)
 陣内のことをよく知らないから、そんな風に思うのかもしれない。まだ、よくわからない。
 秋月は赤い顔でほほえみかけて、空になりかけたグラスを傾ける。
「僕でよければ、いつでもお酒にはつきあいます」
「ありがとうございます、秋月先生」
 ホッとしたように、見えた。
 普段からわかりやすい自分はともかくとして、酒にまぎらせ心を明かすことにより、楽になる。
 そういう人は大変だなんて、刺身の触感を楽しみながら秋月は暢気に思うのだった。


   ***


 翌日、昼休み。倉内はいつものように、図書室へやってきた。
「失礼します」
 胸の鼓動は早鐘どころの速度ではなかったが、どうにか平静を装って倉内は司書室に入る。
 振り返った陣内は、いつも通り穏やかに笑うだけだ。
「もう、君は来ないかと思ったよ。静」
「………もう少し、嬉しそうな顔してくれない?陣内さん。うっわ、酒くさっ。また、シバちゃんと飲んでたの?…今日はあんまり、近寄らないでおこっと」
 普通に会話できたことに感動し、涙ぐみそうになる自分を隠したくて部屋を出ようとする。
 信じられない言葉が聞こえ、倉内は足を止めた。
「そういうつれない態度を取られるのもそれはそれで、寂しいものだね」
「………っ」
 手に抱えていた文庫本が、バラバラと床に落ちる。
 もつれるように歩きだし、倉内は陣内の胸に顔を埋めた。涙が出た。
「確かに近寄らないと、聞こえたんだけれど」
 そんな嫌味を言いながらも、陣内の手が優しく倉内の髪を撫でる。信じられない。
 夢みたいだ。夢なのかもしれない。
「もう一度言って…。僕は、それ以上何も望まないから……!」
「君が居ない図書室は寂しいよ。静」
「…ん…じん、ない…さん……!」
 あなたが好きです。何度も心の中で繰り返し、倉内は嗚咽を漏らした。
 二日酔いでもしているのだろうか。理由なんて何だって、どうでもいいことだ。ただの気まぐれだとしても…これだけで、ずっと生きていける。少なくとも、卒業するまでは。
 恋に溺れている。間違いなく、幸せだと胸を張れるほど大好きだった。


  2005.04.10


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