完敗



「失礼しまーす」
「あれ、後藤くん?どうしたの。珍しいね、職員室に用事なんて」
「オレ今週、週番なんだ。週番日誌取って、センセ」
 なるほどと納得し、秋月は手元の週番日誌を後藤に手渡す。
 一瞬手が触れそうになり、頬が赤くならないようには気をつけたつもりだった。
「はい、どうぞ」
「どーも。ホントは面倒だからやなんだけど、栗ちゃんとじゃんけんで負けて仕方なく、な」
「栗原くんと?」
 栗原というのは、一年C組の生徒だ。そうか確か、出席番号は後藤の前だったかもしれない。
「そ。アイツ、中学が一緒だったから仲良いんだ」
「ふふ。ちゃんと放課後、僕のところまで返しにくるように」
「じゃんけんで負けたらな」
 後藤が笑う。屈託のない笑顔を浮かべられる度、罪悪感のようなものが湧き上がる。ほんの少し見惚れてしまってから、秋月は溜息を殺した。
 これから一週間、嬉しいけれどひどく複雑な気分で過ごすことになりそうだった。

 教室の鍵や授業の資料、その度後藤は、何度も職員室に姿を見せる。
(…栗原くんて、そんなにじゃんけん強いのかな?)
 ふとそんな疑問が浮かんだが、いつもより後藤と話す機会が増えたのが嬉しくて、結局は毎回他愛もない世間話で終わってしまう。
 そんな二人を、長谷川が舌打ちでもしそうな形相で睨んでいたが気にしなかった。職員室という他人の人目がある場所で、何か仕掛けてくることもないだろうと思っていたからだ。
 あっという間に金曜日になり、それをどこか残念に思いながら秋月は教室へと向かう。途中廊下で栗原に会い、ようやく疑問を口にすることができた。
「栗原くん、じゃんけん強いんだってね」
「え?何が?フミちゃん、それどこ筋の情報よ?」
 栗原はきょとんとした表情をしている。中学を出たばかりのあどけなさが、まだ彼には残っていた。後藤が大人びて見えるから、他の生徒と比べるとそう感じるのかもしれない。
 反対に聞き返されて、秋月は同じような顔をして首を傾げる。 
「あれ?今週、後藤くんと一緒に週番なんだよね」
(なんだか、話がずれてるような…?)
 さすがに鈍い秋月にも、そのくらいのことは理解できた。
 けれど次につぐ言葉もなく、栗原が思い出したように大きいリアクションで頷く。
「あー、ああ!そうそうそーなのよ。でもぉ、全部マサが率先してやってくれてるから超助かってる!楽だよ〜。っていうか、それがじゃんけんと何かカンケーあんの?フミちゃん」
 思考回路が真っ白になる。栗原の言ったことが、すぐに頭に入ってこない。
 栗原の言葉を何度か反芻させてから、ようやく秋月は間抜けな声を出した。
「…へっ?!」
「やっだー、何赤くなってんの?どうかした?」
 指摘されてますます、顔が火照る。秋月は慌てたようにぶんぶんと首を横に振ると、もつれた足でその場から逃げ出した。
 理由なんて自分しかわからないというのに、たまらないほど恥ずかしかった。
「な、何でもない!じゃんけんのことは気にしないでいいから!!それじゃあ!」
「変なフミちゃん…」 
 先生が自ら率先して廊下を走るなんて、と栗原は少し笑った。
(どういうこと?とにかく落ち着いて!…というより、落ち着くのは無理だよ……)
 自分にボケツッコミをしているあたり、相当混乱してしまっているかもしれない。
 悩んだ末教室には行かず、秋月は屋上へと向かった。ズボンのポケットから煙草を取り出して、火をつける。ジュッ、という音。煙草は好きな方ではないが、たまにこうやって、自分を落ち着けるために吸うことが多い。月に何回か、そんな時には大抵、屋上を利用させてもらっていた。学校は禁煙ではないが、おそらく、生徒たちは秋月が喫煙していることを知ったら驚くだろう。
 大きく吐き出して、灰色の煙が空に舞い上がるのをぼんやりと見つめる。
「…はあ」
 段々と頭が落ち着いてきた。一本吸い終え、秋月は屋上をあとにする。
 静けさが仇となったのか、それとも功を奏したのか。自分の他に人がいることなんて、微塵も気づきはしないままに。
 

   ***


 教室で、後藤の顔を見てももう平気だった。
 なるべく他の生徒と変わらないように接したいし、そうでなければいけないと自戒もしている。
 やっぱり自分の授業では寝ている後藤を、秋月は肘で軽く小突いたりしていた。
「セーンセ、ハイこれ」
「後藤くん?!あ、ありがとう」
 習慣のようになった日誌の受け渡しも、これで最後だ。職員室のドアが開く度に、ちらりと確認する癖がついてしまったけれど。
 微笑む秋月に何を思ったか、後藤がその顔を覗き込む。
「どうかした?」
「ううん、何で?」
 上機嫌なのは隠しようもないらしい。にこにこ笑いながら、秋月はそう聞き返した。
「ニヤニヤしてる〜。何々、何の話?オレも聞きたいなあ」
「…内緒。これで週番終わりだね。お疲れ様」
 言えるわけもなく、ご機嫌な原因を本人に悟られるわけにもいかない。
 誤魔化すように、秋月は後藤の肩をぽんぽんと叩いた。
「ん。結局、完敗だったよ」
「ア、アハハ…」
 ぎこちない笑みを返してしまった。気づかれていないと良いけれど。
「また明日な、センセ。失礼しました〜」
 相変わらず本当に、こちらが悔しくなるくらいに軽やかだ。半袖から伸びた腕をひらひらさせて、後藤は職員室を出て行く。
(…完敗なのは、僕の方だ)
 気が抜けた。瞬間、思わず週番日誌を落としてしまった。拾い上げようと腰をかがめて、ぱらぱらとめくれた紙面。一言欄に目を向ける。
 強い筆跡で好きですと書き殴られたあとが、乱暴に消されていた。
(………え?)
 錯覚かとまじまじと凝視する。それは確かに見慣れた後藤の字に間違いはなく、けれど、消しゴムで紙がすりきれるほどに消したあとなのだ。
「どういう、こと…」
 主語も述語もあったもんじゃない。消された、まるで告白のような一言が信じられない。
「秋月先生。座るなら、自分の席にしてください」
「はいっ、すみません!」
 嫌味たっぷりの神経質な長谷川の声に、秋月は慌てて立ち上がり頭を下げた。
 素直に自分の言うことをきく秋月に、長谷川は驚いたようだったが…そんなことには頓着せず、秋月は週番日誌を抱きしめて深い溜息をつく。
 煙草一本でどうにかなるような、甘いもんじゃない。抑えきれない恋の感情に眩暈がして、泣きそうになりきつく目を閉じた。


  2004.06.06


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