――――確かに、今日は平日の火曜日だった。売春宿にもひと気は少ない。
「だめ、全然だめ」
店の赤いライトに照らされながら、俺は黒服へ言った。
「こちらの女の子などいかがでしょう」
「チェンジ。変えて欲しいんだけど」
「申し訳ありません。これ以上、お好みに合う女の子がいないとなりますと」
「帰るわ。邪魔したな」
帰り仕度をしようとした。時間がもったいない。
そんな俺の服装を相手の黒服は黙って値踏みし始めた。ココは吉原でも高級店だ。俺の腕に嵌っている腕時計はIWCだし、着ているスーツは銀座老舗の仕立てだ。確かに俺は見てのとおり、金には不自由していない。
しかし、そんな俺も時間だけは不自由している。こんなしけた国内、しけてる癖に生意気な馬鹿女しかいないこの日本国内、こんなニッポンなんぞにいるくらいなら、タイの魔窟や、フィリピンのリゾートあたりで現地調達した方がマシに決まってる。
さばけた明るい南国の売春婦たちとシケこみたい。俺はそんなありふれたハイエナのひとりだ。
「……お待ち下さい。お客様」
……黒服が耳打ちしだした。赤いあかりが黒いスーツに吸い込まれ、布地がぎらぎらと下品な光沢を放っている。
「もう、5万ほど予約金に上乗せいただけますと」
黒服はぼそぼそとしゃべった。
「……当店でも最上級のをご用意できますが」
「へえ?」
日本国内の売春窟など最悪だ。
女の子を、写真やタッチパネルの画像で選ぶ。その画像の質がまた粗悪だ最悪だ。プリクラの画像みたいで、本人そのものを写したものなどない。選べば全くの別人が出てくる。
しかし、国外ならそうじゃない。
フィリピンでも、タイでも、
売春窟なら、『直に』 女の子たちがぞろぞろと列をつくって客の目の前に出てくる。
にっこりと微笑む彼女らの中で、好みの子をこちらが指差して文字通り 『指名』 するだけだ。
アンへレスでもパッポンでもスワイパーでもヤワラーでも。
およそ、東南アジアの薄汚い売春宿のすみのすみまでそうしたシステムだ。
なんの間違いもない。
一方、この日本の売春システムとかいうやつ。
女性に配慮しすぎなのではないか。
写真を修正しまくった別人が出てくる。本当に怒鳴りつけてやりたい。てめぇの目はこんなに大きいのかと。
それで、ナマはいやとかフェラはいやとかほざきやがる。てめぇの口はそんなに上等な口か。ザーメンしか食う脳がないくせにふざけるな。顔でも踏んでやりたい。サル並みの下等生物だろうがてめぇらは。
教養もないおひきずりのズベどもがふざけるな。本当に金と時間の無駄だ。
俺の気持ちをよそに、黒服はささやき続けている。
「当店には別の 『商品』 がございます」
「どうして、今日に限ってそんな 『商品』 紹介してくれるんだ」
俺は警戒して小声で呟いた。
「いえ、いつもは予約で埋まってしまっている 『商品』 ですが、たった今キャンセルのお客様がいらっしゃいまして」
黒服が丁寧な口調で言う。確かにココは吉原あたりでも高級店のはしくれだ。
「八戒おいで。お客様にご挨拶なさい」
黒服が猫なで声で店の奥へ声をかけた。こんな声をこいつが出すのをはじめて聞いた。
一瞬、金銀の淡い陽炎が舞う幻覚を見た気がした。
すると、
奥の布でできた帳が、優美な腕で開かれる気配がして、そこから、
――――きれいな黒髪の男が顔を出した。
「男だ? 」
俺は眉を跳ねあげた。
「おや、お気に召しませんか」
黒服はしれっとした口調で言った。
「八戒です。はじめまして」
黒髪の男が口を利いた。すごい、ぞくぞくするような声質だ。性的な甘い声とでも言おうか。美声だ。
男なのに。
目はアーモンドの形をしていて、艶かしい。きれいな緑色をしている。優しげで整った顔立ちが眩しい。前髪が目にかかるくらい長く、それがまた特別な宝飾品のようだ。部屋の赤いライトを跳ね返し、光を放って輝いている。襟足は短く颯爽としていて、若い男ならではの清潔感が漂う。
売春宿特有のピンクや赤の――――『レッドライト』 この下品な赤色光の下でこの男を見ると、ぞくりとするような凄みがあった。
そう、今この赤色光で八戒を照らすと、なまじ清潔で真面目そうな外見をしている分、光が反作用を起こして存在自体が淫靡なものに変化するような凄みがあった。
そして、この目の前の麗しい男は、その青みがかるほど澄んだ綺麗な瞳でしばらくの間こちらをじっと見つめると、突然にっこりと微笑んだのだ。
まるで、天から降る、白い花のように優雅で美しい微笑みで。
俺は、相手が男だというのに、その瞬間ひとめぼれしてしまった。
「お客さんにお会いするのは、はじめてですね。どうして僕を」
どうしてなんて、こっちが聞きたい。黒髪のイケメンを前に俺は混乱していた。
「……黒服に勝手にすすめられた」
俺は目の前の黒服を指差した。これでは詐欺だ。
「はははっ」
『八戒』 とかいうこの黒髪の男は楽しそうに笑った。笑うといかにもひとのいいお兄さんという表情になる。目が細くなって糸目になり、目じりが下がってよりいっそう優しい表情になった。癒し系というのかこういうのは。端麗だが、ひとに警戒心を与えない柔らかい顔だ。
「本当にすいませんねぇ」
八戒が頭を下げる。
「このひと、人使いがホントに荒いんですよ」
瞳がきれいな緑色だ。深い南の海の、海溝のような色をしている。俺はうっかりと相手の目にみとれた。
「それで、お客さん」
『八戒』 は妖しい微笑みを浮かべた。
「何して遊びましょう」
聴覚と視覚にべっとりと入り込む、ぞくぞくするような、声音と表情だった。……確かにこれは男殺しというやつだ。『八戒』 の着ている、どこにでもあるような白いシャツすらもが官能的だ。清潔なくせに、白い蟲惑的な花の匂いが漂ってくるようだ。
「お客様」
黒服が、ぼぅっとしていた俺へ不意に声をかけた。
「やはりチェンジしますか」
客の心を見透かした声だ。いやなヤツだ。
「――――いや」
俺は慌てて返事をした。
「このままでいい」
「承知しました」
確かに、黒服は口端で笑った。本当にいやなやつだカンにさわる。
しかし、もうそんなことはどうでもいい。それより、
俺の目の前にいる、この人外のあやかしのような謎めいた美しい男は何者なのか。強烈な好奇心が湧いてくる。
今まで、感じたことのないときめきを俺は感じていた。
確かに、こいつはこの店の 『別格の商品』 だ。
「どうか、おたのしみください」
ようやく黒服は出ていった。
大昔の吉原なら 「おしげりなまし」 とでもいうところだろう、こんなときは。そんなことが頭によぎるほど、目の前の男はこの世のものとも思えぬほど妖艶だった。
――――それにしても、きれいな男がいるものだ。
俺は目の前の 『八戒』 をつくづく眺めた。
かつて、中国の皇帝の中には、3000人いる後宮の美女に飽きて、美男を寵愛したものがいるという。
『八戒』 を目の前にした俺は、そんな逸話を思い出していた。
それほど、この男は美しかった。
俺は名高い 『史書』 にも記されたこの話をはじめて納得した。確かに、それはそうだろう。こんなきれいな男を自分の好きにできたら、どんな美女も色あせるというものだ。
「あんた、『八戒』 っていうんだって?」
「そうです。お客さんは?」
俺は名前を言った。
「ははは。どうか、よろしくお願いします」
八戒は頭を軽く下げて会釈した。さらさらとその額で艶やかな黒髪が音を立てた。青みがかるほどの艶を放つ綺麗な髪だ。
「キャンセルされたんだって? あんたみたいな綺麗なひとが? なんで? 相手に仕事でも入ったのか」
俺が言うと、八戒はさびしそうな微笑みを浮かべた。
「……しょうがないですよねぇ。どうしようもないことってあるもんですよ」
ふっと浮かべる憂いを帯びた表情が、綺麗でどうしようもない。見ているだけでぞくぞくしてくる。
「常連客なんだ?」
「はぁ、ここ当分、ずっとごひいきにして下さってたんですが」
八戒の表情はただの常連客というだけでないような気配を漂わせている。
「ふぅん。どんな客? 年は? 職業は?」
「――――お客さん」
俺の立て続けの問いに、
八戒の困ったようなきれいな顔が大写しになって迫る。距離が近い、近すぎる。
彼は微かに笑った。儚げな微笑だった。天人のようだ。
「――――おしゃべりだけで、いいんですか?」
そのまま、八戒はついばむように、俺の唇にそっとキスをした。
赤いライトの下で、
「あ……っ」
甘い蕩けるような声が、耳朶を打つ。
「だ……め」
その着ている白いシャツをはだけさせて、胸に手を入れた。ひどく敏感な白い肌だった。売春宿の赤いライトに照らされて、肌がピンク色がかってみえる。
「お客さん……お客さんを先に僕が」
風俗の基本として、客を先にヌイておこうというのだろう。八戒が俺へ手を伸ばそうとしてくるが、その指の長い優美な手を払って押さえつけた。
「あ……! 」
ちゅっ、とその綺麗な鎖骨へくちづけした。もちろん、内出血の跡などつけぬように気は使った。
舌をそのまま這わせる。
「あっあっ……」
通常、風俗嬢は自分の身体を客が触るのは好まない。高級店はそうでもないが、安い店で安い価格で肌を売っている連中など、それを露骨に顔にまで出す。客にはさっさと早く抜いて出して、金を払い店を出ていって欲しいのだ。
「く……ぅ」
そんな、風俗で働く連中の心理は重々承知しているが、どうしても俺はこの綺麗な男の声が聴きたかった。どんな風に甘く啼くのか聴いてみたかった。
「あああッ」
下肢に履いている服を剥ぎ取った。金属音を立ててジッパーを降ろし、その下着ごと足首まで引きずり落とす。
「やめ……お客さんッ」
八戒の目元が朱で刷いたように染まる。そんな表情までもが妖艶だ。
「客にナマでフェラさせると、幾ら?」
「え? 」
俺は背広の財布から何枚か札を抜くと、八戒の手へ握らせた。
「んんんッ」
――――そのまま、直接この綺麗な男のをしゃぶった。弾力のある肉塊、肉棒の感触が生々しい。舌を絡めるとびくっと口中でそれは跳ねた。
「あッだめ。だめで……」
震える手をのばして、俺をひきはがそうと喘ぐ八戒にかまわず、それを上下に唇で扱く。
「――――ッあああッ」
八戒の腰が痙攣しだした。ひどく感じやすい身体をしている。これで風俗勤めは辛かろう。せっかく握らせた札は、その白蝶貝で削りだしたような綺麗な爪の嵌った指をかすめ、手から落ち床へと散らばった。
「お客さんッ……ああッ」
綺麗なピンク色した肉冠の先端に、鈴の口に似た可憐な小さな穴が口を開けている。そこからつらつらと先走りのとろみと塩気のある体液が流れ落ちてくる。
「すげぇガマン汁が多いんだな」
「あ……」
恥ずかしそうに、八戒が顔を横へ向け薄紅色に上気した身体をよじる。つっ、と俺はその屹立へ横から舌を走らせた。
「ああッ……ああ」
八戒が甘い悲鳴を上げた。男から正気を奪う、蕩けるような声だ。つるつるした肉冠の下、襞の寄った裏筋を丁寧に舐め上げる。
「ひッ……だめですッそこはだめ……」
俺の頭へ手を添えていた八戒が全身で痙攣しだした。
「ああッああああッだめ……でちゃいます……離れて」
俺の頭を引き剥がそうとしだした。必死だ。本気だ。黒髪の麗人が本気でいやがっている。
俺は許さなかった。そのまま、口の中で震える肉塊を、絞り上げるように扱き、雁首をとろとろと丁寧に舌で舐って愛撫した。
「出るッ……でちゃう……ああ……ひどいッ」
微かな痙攣と血管の収縮を口腔の粘膜で感じる。とうとう、八戒は俺の口の中で射精した。塩気のあるとろっとした粘液が口の中に広がるのを感じる。咥えている肉塊は何度も震え、その度に先端から白濁液を吐き出した。
俺はそれを全部飲んだ。
「ああ……」
達した後の黒髪の男は想像以上に艶かしかった。赤いライトの下で荒い息を吐き、肩を上下させている。
「だめだって……言ったのに」
俺はまだ、八戒の屹立に伝う白濁液を舐めていた。ぴくぴくして、上の腹へ張り付き、淫らな液体を吐き尽したそれは雁首をしなだれ微かにふるえている。その下の翳りをそっと覗き込む。
「……!」
快楽で目が霞んでいたらしい八戒だったが、俺の意図に気がつくと、あわてて脚を閉じようとした。
「だめです。本当にだめです!」
抱きたい。八戒の脚の間に息づくそれは、慎ましく蕾を閉じていたが、性的な行為ですこし震えてわなないていた。
「……あんた、最近抱かれていないだろ」
俺は八戒へささやいた。脚を開かせたまま、肉の環へ息をふきかけた。それだけでそれはひくついてぴくぴくしていた。いやらしい身体だ。……男に飢えている。
「!」
「あんたみたいな綺麗なヤツがおかしいよな。連日予約が入ってたって? なのにどうして」
八戒の肉の環を指でつついた。ひくひくしているが、感触が硬質だった。こうした店にいる売れっ子たちと違って慎ましかった。これでは、少なくとも数日は男に抱かれていないだろう。不思議だ。
「…………」
八戒は沈黙した。淫らな行為で上がった息を抑えるフリをしている。
「……予約だけして、ヤらない客がいるんだ? ソイツがあんたの大切な 『常連さん』 ? 」
最近、そんなに抱かれた形跡はない。しかし、執拗に身体は弄ばれている。そんな気配が八戒の裸体からは漂っている。
「…………」
黒髪の男は答えない。
「すげぇ、金持ちじゃん。そいつ。何モンなの」
八戒の身体はとても敏感で淫らだ。若い男に食い荒らされていて、荒淫がかさんでいる身体というよりは、丁寧に足のつま先までしゃぶられている身体だ。こんな芸当は若い男にはできまい。
「…………」
「あんたにお触りだけして、満足して帰るんだ? その常連さん」
常連の客は相当の年上だろう。上等の年配客がこの黒髪の男にはついているのだ。
年かさの男に徹底的にしこまれている。そんな身体だった。淫らな身体だ。
その癖、最近抱かれた形跡はない。
考えられることはひとつ。常連客は金持ちで、若い男のような精力がないかわりに、金の力でこの美しい男を縛っているのだ。
――――金で、この八戒の予約を全て買っている。八戒の時間を全て金でほしいままにして買いあげているのだろう。
そこまでして、他の男に抱かせたくないのだ。
それなのに、今日はどうして――――。
俺がそこまで考えたとき、思考を読んだように突然八戒が口を開いた。
「昨日、予約の連絡が切れたんです」
ぼそり、と呟く。
「いつもは昨日、そう毎週月曜日にその週の予約の連絡が入ったんですけど――――今週は連絡が入らなくって」
寂しそうに八戒は笑った。
「飽きられてしまったんですよ、きっと」
苦笑を浮かべながら、言った。そんな憂いと自嘲のないまぜになった表情がまた美しい。似合う。
「好みのコが他の店にでもいたのかもしれませんよねぇ」
スミに置けませんよねぇ男のひとってホント、なんて呟いて、この麗人はひょうひょうとしている。
「じゃあ」
俺は言った。声が粘つく。抑えようとしても言葉に勢いがついた。
「そいつにもう、遠慮しなくていいよな」
八戒のおとがいを指で捉え、綺麗な顔を上へ向けさせた。その怖いほど美しい緑色の瞳を見つめる。くっきりとした目。白目との境が青みを帯びて美しい。
「抱きたい。あんたを抱きたい。あんたのココに挿入したい。あんただってそんないやらしい身体してるくせに最近、男なしで――――」
思わず、獣じみたうなるような声が出た。幾らかかってもかまわない。この美しい男を抱きたい。
そんな、会話をしていたそのとき。
「大変申し訳ありませんお客様」
黒服が血相を変えて部屋に飛び込んできた。
「こちらにいる八戒の予約がキャンセルされたとお伝えしたのは当店の手違いでして」
「――――え」
黒服が平謝りして頭を下げる。
「申し訳ありません。こちらの手違いでした」
ぼうっとした表情で、八戒は黒服を見つめている。
「ほら、八戒、早く服着ろ、服。お客様、本当に申し訳ありません。ただいま当店のほかの女の子を」
黒服が膝を床に着き、頭を下げる。徹底した土下座だ。確かに客がもうチェンジしないといい、もう行為に及んでいるのに、途中で変えるなど言語道断だ。ありえないことだ。
「八戒、実はな」
黒服が八戒の耳元へささやいた。
「――――あの常連さんが? 」
それを聞いて、服を手にとった八戒が呆然とした表情で呟く。
「昨日、虎ノ門の救急に運びこまれたんだそうだ。ICUにいるってよ。だからここの予約が――――」
黒服と八戒は声をひそめて会話しだした。
わけがわからない。
「ずっとお前さんのことをうわごとで呼んでるらしい。この店へ連絡が病院からきやがった。行ってやるのか」
「いいですよ。僕みたいな日陰の身がでしゃばったって」
八戒のつれない言葉を聞いて、黒服が眉をひそめた。
「おい。本当にいいのか」
「?」
「あの客、これから先のお前の予約、全部買うってよ」
「え」
「遺言状には」
黒服が言葉を切った。ごくっと唾を飲む音がした。
「遺産の全部、お前の予約に支払うって書いてあるって司法書士と弁護士が電話口で言ってきた」
「…………」
しかし、
八戒の目が、興味なさそうに、光を失った。
綺麗なくっきりした緑色の瞳。美しくて、残酷な。
ああ。
本当の男殺しっていうのは、こういう化け物のことを言うんだと俺は納得した。
ひとりの男の人生の最後の最後、最後の希望、何もかもを喰ってしまう存在なのだ。
「お客様! 大変申し訳ありません。お客様! 今、当店ナンバーワンの女の子を――――」
もういい。
もう本当にいい。
俺は黒服の声を背に店を後にした。
了