一日もの言わず蝶の影さす 放哉
今日も現実感が薄い。
いや、これは離人感というやつかもしれない。
退廃的な気配を漂わせ、八戒は自分の手を顔の前にかざした。
破れかけ、黄ばんだ障子越しに、光が柔らかく射し込む。外界のきつい陽光も、ろ過してくれているようだ。
女衒が一日休みをくれたのだが、八戒はどこへも行く気にならなかった。物憂い調子で寝台に身を起こせば既に昼過ぎになっていた。
「ははは、寝すぎですよねぇ」
自分にあてがわれた、廃屋のような部屋の一室で動かずにいると、段々と廃人になっていくような気がする。
いや。
もう、既に自分は廃人なのではなかろうか。
少々疲れた顔を上げ、首を傾けて少し思案したが、どうでもいい気がした。
次に、そういえば何も食べていないなと思ったが、それもどうでもいい気がしてくる。
女衒がいなければ自分と言う人間はとっくに餓死しているのかもしれない。
何もかもが、もうどうでもいい。
自棄。
「だって、僕には生きていく資格も理由もないんですから」
生きていく資格。生きていく理由。生きていく目的。すべて失ってしまった。
花喃。
彼女が妖怪に連れて行かれ、犯されるのを黙認した奴ら。
自分可愛さに見て見ぬふりをした村人すべてが憎かった。人間すべてが憎かった。
憎悪は八戒の皮を突き破り、あふれ、殺意になった。殺して、殺して殺しまくった。
あのときから、八戒は人であることを潜在的にやめてしまっていたのかもしれない。
花喃を連れ去った妖怪どもを殺し、花喃を犯した妖怪を殺して、殺して殺しまくって。殺して。殺して。
そして、もう八戒はもとの自分には戻れなかった。
もう生きていく目的も、理由も何も何もない。
今、ここにいるのは抜け殻。抜け殻は壊れたって、死んだって同じ。
だって抜け殻だから。
蝉の抜け殻を足で踏みつければ、アスファルトに乾いた破壊音をたてる。今の自分はそんな存在。
八戒はぼんやりとそんなことを思った。
「せっかく休みをやったのに、一日中部屋にいるのか」
女衒が様子を見にやってきていたらしい。部屋のドアが開いたのにも八戒は気づかなかった。
突然声をかけられて、驚く素振りもみせない。
八戒は微笑んだ。
男疲れしたようなその顔に浮かぶ微笑は妖しく背筋が凍るほど美しい。
「なんか、やっぱりお前、人間じゃねぇよな」
女衒は八戒が千の妖怪の血を浴びて妖怪になったとは知らない筈だ。
「あれ、僕は人間じゃないんですか、じゃあもう廃人なんですかね。僕は」
人間商売さらりとやめて。
「馬鹿。そうじゃなくて」
――――こんな綺麗なヤツが人間の筈ぁねぇよ。
女衒は自分の思いを飲み込んだ。
「そうじゃないならなんです。」
八戒は寝台の上から女衒の方へ両手を伸ばした。
その仕草に誘われるように、女衒は八戒のいる寝台の上に倒れこんだ。
「ふふふ。あなたの身体の重さ、気持ちいいですね」
「おいおい、八戒」
「やっぱり、たまにはセックス抜きで、こうやってただ抱き合うのっていいですよね」
「八戒! 」
「あ、僕また眠くなってきちゃいました」
女衒の身体が熱を持ちはじめているのを知らないはずはないのに、八戒は罪作りな笑顔で微笑む。
「ね、お願いがあるんです」
「な、なんだ」
猛り始めた身体を悟られまいと慌てる女衒に八戒は言った。
「僕が寝てしまったら、ここのところをこう――――」
八戒は自分で自分の首を絞める真似をした。
「――――してくれませんかね」
僕の望みはもう二度と目が覚めないことだから。
「無理ですか」
「何言ってんだ」
「あなたならやれるでしょ」
「無理言うな、俺はお前に――――」
思わず押し殺し続けていた胸のうちを、女衒が吐露しそうになった次の瞬間。
「冗談ですよ」
まるで、脳の回路が切り替わるように、冷めた声で八戒は言った。
「やっぱり、僕眠いんです」
欠伸をして、ひらひらと女衒の前で片手を振った。
「おやすみなさい」
「おい、八戒! 」
女衒の気持ちを知ってか、知らずか。身体の下で、八戒は本当に寝息を立て始めた。
「おいおい。本当かよ」
――――いや。
『冗談ですよ』
八戒の我に返ったような冷たい声が女衒の耳に残る。
――――寝てる間に僕をこっそり殺してくれませんか。
「馬鹿なことを」
あなたが
あなたが、どんな存在になろうと生きていて欲しい。
あなたが、廃人だろうがなんだろうがかまいはしない。
あなたが、どんな罪を犯していたとしてもかまいはしない。
「俺はお前を」
障子を締め切って淋しさで満たす。
八戒が眠ってしまった今、女衒の呟きを聞くものは部屋に誰もいなかった。
了