3×8

探花

 月の美しい、まだ冷える春の宵口よいのくちのことだった。澄んだ空気の中、雪が降るかもしれないと宮中のものが噂している。回廊の上で八戒を呼ぶ声がした。
「猪どの。猪八戒どの」
 慇懃いんぎんな口調で白髪の大臣が八戒を差し招いていた。
 その声に応え、煌々こうこうとした月の光を浴びながら振り向いた容貌は、端麗と評するほかないほど優れている。
 すっきりと整った鼻筋、輝く長めの前髪がその額を飾り、その隙間からは緑色の美しい瞳がのぞいている。翡翠のような美しさ、滅多に産することのない極上中の極上、狼干ろうかんと呼ばれる宝石に似た謎めいた深い緑色だった。
 しなやかな細腰、長い手足、見る者の心を騒がせて止まぬ罪つくりな美しさだ。震いつきたくなるような美男というのを初めて見た。
――――つい大臣は年甲斐もなくそんなことを思った。
「なんでしょう」
 やわらかい声で返答があった。
大臣は柔和な微笑みを浮かべる唇に、陶然とみとれかけたが、慌てたように咳払いした。
「猪どのは仮にも科挙(官吏登用試験)を状元じょうげん(一位)の成績で登第とうだいされた秀才。まずは上々の首尾と申し上げねばなりますまい」
 これほど若く美しい青年の登第を見るのは初めてだった。霊獣である麒麟きりんが、その背に乗せてうやうやしくこの世に運んできたかのごとく、目の覚めるような美青年だった。うっかりすると甘くなりそうな口調を引き締めるかのように大臣は早口で言った。
「よいですかな。成績上位で試験に受かり、陛下の覚えもめでたい――――そんな方には、最初にお勤めをして頂くのが宮中の決まりでしてな」
「はぁ」
 八戒はどこか気の抜けた声を出した。
 艶やかな黒髪が玲瓏れいろうとした月の光を跳ね返す。しなやかな長い首は襟の立った生地に隠れ見えない。が、隠せば隠すほど色香が増すという風情だった。
 進士登第の才子といえば、ご面相の方は期待できぬガリ勉と思いがちだが、天は何物もこの男に与えたと見えて、煌めく才気に加え、慎ましやかだが完璧に整った容貌は、下界に降り立った天の使いのようで見るものを圧倒した。
 そんな八戒に怪訝けげんな瞳で問い返されると、大臣の落ち着きのなさは余計にひどくなった。
「はぁ、ではありませんぞ。聞いてはおられぬのか」
 しわがれた声でやや責めるようにささやいた。
「今夜、陛下もご臨席なさる宴の席上に、この都で一番美しい牡丹の花を持参すること――――それが今宵、そなた様のお役目よ」
「え……」
 八戒はどうして僕が、と呟こうとして止めた。白髪頭の大先輩である大臣にじろりと睨まれたからだ。





 こんなわけで。
 男子たるもの志あらば、進士登第して龍のごとく駆け登って殿上人となり、高位高官をほしいままにして故郷に錦を飾るを本懐とするところ――――。
一生かかっても解けぬ、受からぬと言われている「科挙」を第一席で難なく通過する。そんな驚天動地なことをやってのけるような才子を輩出した地方は、それこそ故郷の誉れよと、むらを上げて快哉を叫び祝うのが習わしだ。破天荒。
科挙に受かるとはそれほどの名誉なことだった。中央で高官になるのも望むがまま、故郷に錦を飾るべく県知事として赴任するもまたよし。
 しかし、そんな難しい試験に涼しい顔をして受かった八戒は、どうしてどうして、自覚というものが何もないようだった。
 受かるだけでも難しい試験を、これまた状元と麗々れいれいしく呼ばれる第一席で通過したのにである。
 合格者の第一席、栄えある状元じょうげんとして八戒の名が呼ばれたとき、その優男やさおとこぶりに周囲は残らず目をいた。皇帝の前に積み置かれた数多の答案の上に八戒の答案が置かれ
――――殿試でんしの答案は長いため巻物状になっている
――――そう、多数の答案の巻物で出来た山の頂きに八戒の答案が一巻、しずしずと置かれると、その光景はまさに「巻を圧す」
――――圧巻の名の通りとなり、瞬く間に周囲はしんと針の落ちる音も聞こえるほど静まりかえったのだった。
 だというのに、肝心の本人は、どこまでも書生のような、田舎の清廉せいれんな若手教師を思わせる風情だった。老大臣の心配というか、もやもやした気持ちも当然のことといえた。
 とはいえ既にその身を包むのは、殿上人らしい薄緑色の極上の絹に、これまた極彩色の刺繍ししゅうが丁寧に施されたもので、確かに八戒は、もう普通のひとではないのだった。





「やれやれ、困りましたね」
 すぐさま2頭仕立ての馬車を駆るようにして、八戒は慶雲院の前へと降り立った。ここが牡丹の名所だと周囲に聞いて来たのである。
「八戒さま」
 冷える夜風を裂くようにして傍仕そばえの者や御者が声を上げる。
「お供いたします」
 そんな言葉に笑って、首を振ると八戒は答えた。
「いいですよ。たいした仕事じゃありませんし」
 優雅な長衣をひるがえして、寺の奥へと足を踏み出した。人々の話によれば、一般公開はされていない秘密の中庭が奥にあり、そこには先代の和尚の愛したとびきりの牡丹があるということだった。
 いかにも、身分ある貴公子といった身なりの八戒が歩いてゆくと、すぐにまだ若い坊主達が何人か飛び出してきた。墨染めの衣を着た少年の修行僧達だ。
「お待ち下さい」
「ご案内を――――」
 八戒は目を丸くした。
「おや、僕は連絡も早々にこちらへ伺ったのに、案内までしてくれるっていうんですか」
 一番若い、茶坊主がうつむきながら答える。
「はい。毎年、高官の方がこちらの牡丹を所望されますので――――」
 なんのことはない。酒の肴にいつも役人どもはここの牡丹を使うのだった。すっかり合点がいった八戒は瞳をくるりとめぐらせると、ため息をついて言った。
「なるほど、そうでしたか。実は僕もそうなんですよ。お役目で花をとってこいと言われましてね」
 困ったように微笑むその花貌かぼうに茶坊主どもは見とれて動かない。
「中庭はどこです? さっさと済ませちゃいます。みなさんのお邪魔はしませんから」
 例年と異なり、若く美しい高官の訪れを受けて、びっくりしている坊主どもにはかまわず、八戒は廊下の奥を見つめた。
「あちらですか? 分かりました。じゃあ、牡丹を一輪頂きますね」
 八戒は震える小さな手が渡してくれた、切りばさみを受け取ると、さっさと歩いていった。





 確かに美しい庭だった。
 大きさはさほどはない。小づくりで庭石やら池やら凝ってもいない。ただ丹精された牡丹が咲き誇っているだけだ。
寺はこの小さな中庭を囲むようにしてひっそりと建っていた。庭を中心にして渡り廊下がぐるりと廻らされ、四方から美しい牡丹を眺めることができるようにしてある。
 中空には凍れるような美しい月がかかり、冴え冴えと美麗な花々を照らし出していた。
 手をかけられた牡丹は、寒さに弱い品種は丁寧にもわらをかぶせられ、ひっそりと重たげな花を咲かせている。一般の人々に公開したら、我も我もと詰めかけるだろう。紅に白や薄い紅。青みがかかったものに黄色なもの。緑かかったり絞りの入った変わったものなど、選りすぐりの名花が物も言わずに競うように咲いていた。
「お寺なんて墨染めの世界かと思っていたんですけど」
 八戒が人ひとりとしていない、秘密めいた中庭でこっそりと呟いた。
「驚きましたね。こんな風流な庭があるなんて」
 感心はさて置き、ともかく言いつけどおりこの中からとびきりのを摘んで帰らなければならない。八戒は目を凝らした。しかし、どれもが美しい。
「……あ」
 いずれも甲乙つけがたい中、1つ八戒の目に留まった花があった。それは白い牡丹だった。花の中心にかけて、うっすらと黄色味を帯びている。今夜の冴え冴えとした月を連想させる牡丹で、幻のような美しさだった。
「これ、これですかね。まるで華麗な月みたいな」
 八戒はその花弁へそっと手を触れた。
 するとそのとき。
「何してやがる」
 低い声が突然響いた。
「え……」
 驚いた八戒が、辺りを見渡す。ちょうど、牡丹の咲き誇る花の群れの向こうに、金の髪が揺れた。庭の色彩は、ますます金襴緞子きんらんどんすを思わせる華麗な色合いを帯びた。
「毎年毎年、俺の寺の花を盗みやがって。何しに来てるんだ一体。てめぇらは」
 ――――それは。
 月の化生けしょう。月の魔物。
 一瞬、そんなあり得ぬことを八戒は思った。
 そこにいたのは、その夜の凍れる月によく似た男だった。
不機嫌そうな紫色の瞳が八戒を射た。牡丹の花が揺れ、その向こうから「彼」が姿を現した。
 金の糸でできているかのような豪奢ごうしゃな髪は前髪が厚く、横は耳の辺りで無造作に切られ、襟足えりあしが長い。癇症かんしょうなまでに細く高い鼻梁びりょう、やや上へと跳ねた気難しそうな眉、見る人を圧倒的する完璧な美貌だった。
 華やかで強い光のような存在。そんな神々しいまでに華麗な容姿だというのに、墨染めの簡素な衣を着て、おまけにタバコなどを手にしている。
「今年こそは言ってやろうと思ってたんだ。腐れ役人が」
 冷たく傲岸不遜ごうがんふそんに言ってのけると、彼は馬鹿にしたようにタバコの煙を吐き出した。紫煙が周囲に立ちこめる。
「あ、あなたは」
 一瞬、気を呑まれて八戒が口ごもる。相手が何者なのか、見当もつかなかった。
 牡丹の花のような美貌。それを意地悪そうに歪めて相手は八戒を見つめていた。
「帰れ。皇帝に伝えろ。うぜぇ。今度やったら撃ってやるから覚悟しとけってな」
 とんでもないことを言い捨てると、その男はくるりと背を向けた。
優美だというのに、癇性で気短なのがありありと分かる顔立ちだった。習い性なのだろう、眉根に皺を寄せて舌打ちをして威嚇いかくしてくる。美しくも凶暴な猫科の獣を思わせる仕草だ。
「……困りました。でも僕もこれが役目なんですが」
 八戒は思わず頭を掻きながら呟いた。その言葉に相手が振り向く。
「役目だ? 」
「ええ。みなさん、僕の持って帰った牡丹を肴に酒を飲むんだそうです」
「くだらねぇな」
「ええ。つまんないことで毎年お騒がせしてるみたいでスイマセン」
 八戒が言うと、相手は顔をうつむけた。
 吸い込まれそうな紫水晶の瞳が考え深げに伏せられる。冷たいほどの美貌だったが、こうして下を向くとまつげが結構長い。
「それなら」
 墨染めの衣に牡丹の花びらが散りかかっているのに気づいたらしく、それを手で無造作に払いながら彼は言った。
「しょうがねぇ。一本だけだぞ。持ってけ。好きなの。てめぇならあの世にいるジジイも良いっていうだろ」
「ジジイ」というのは、ひょっとして先代の住職さんのことなんでしょうかと思いながら八戒は首を傾げ、そして言った。
「いいえ」
 にっこりと笑う。
「どうも皆さんに言いつけられたものは持って帰れそうにないですから」
 八戒は諦めたように淡々と言った。
「僕、帰ります」
 翡翠色の瞳を細めて目の前の男へ穏やかに告げた。
「……おい」
 金の髪をした坊主は、片目をすがめるようにして八戒の姿を見つめた。
「いいのか」
「はぁ。貴方、宴席は嫌いそうですものね」
 八戒は謎めいたわけの分からぬことを言うと、非日常的に美しい庭を後にした。
 まだ冷たい夜風が、取り残された男の金糸の髪を揺らす。彼は去ってゆく八戒の後ろ姿をいつまでも見つめていた。





 その後。
「おお、戻られたぞ」
「おや、猪八戒どの。花はいかがした」
 八戒は急ぎ宮中に戻り、皇帝も臨席りんせきする由緒正しき宴席に姿を現した。
紫の衣を着た皇帝を正面に据えて、高官どもはその下座でやんやと杯を酌み交わしている。白磁はくじの器が音を立て、美味佳肴びみかこうが並べられ宴はたけなわだった。
「花を持っておられぬようだな」
 八戒に牡丹の花を摘んでくるように助言した老大臣が硬い声音で訊いた。
「如何に八戒どの。お役目に背くのか」
 年若い後輩をたしなめる語調だった。八戒は煌々こうこうとした月光を背後にして、飄々ひょうひょうとしている。
「すいません」
 困ったように目尻を下げた。どこまでも整った麗質に愛嬌という風味が加わり、いっそう魅力的になった。
「いいつけどおりお寺まで行ったことは行ったんですが」
 頭を掻いてやや腰を屈める。如何にも人のいい好青年というそぶりだ。
「この都で一番美しい牡丹――――いることはいたんですが、どうも」
 八戒は続けて言った。
「喧嘩ごしだわ、タバコなんか吸ってるわ、性格はきつそうだわで――――いやぁ。とても持って帰るわけにいきそうになかったんで」
 しゃあしゃあとワケの分からぬ言い訳を八戒はしだした。居並ぶものたちは目を白黒させている。
「ちょうど今夜の月みたいなひとだったんですけど。いやぁ。連れてこれる状況じゃなかったんですよねぇ」
 妙なことを並べ立てる八戒へ言葉を挟むものがいた。
「猪どの」
 その男は痩せた目つきの鋭い中年の文官だった。彼はった豆を摘まむ手を止めて呟いた。
「……女ですか」
 その場は騒然となった。
「寺ではなく、さては妓楼ぎろうへでも花を探しに行かれたのか。なんとしたこと」
「かような美女ならなおのこと連れて帰ればよいものを」
 口々に人々の間から声が上がった。
「罰杯だ! 」
「さよう。お役目を果たせなかったのですから、罰杯じゃ」
「座れ。ささ座られよ」
 八戒は無理やりその場に座らされると、手に黒い石で紙のように薄くできた杯を握らされた。高価な夜光杯やこうはいだ。それに、なみなみと澄んだ酒が注がれる。
「美女ってわけじゃ。それに僕が行ったのは確かにお寺ですし」
 八戒はこの後に及んでなおも言った。
「ええい。言い訳など無用」
 あきらめて八戒が酒に口をつけると、左右の官女がすかさず次の酒を注ぐ。酒壷さかつぼを抱えた白粉の匂いの濃い女に微笑まれ、八戒は慌てた。
「うわ! ちょっと待って下さいよ! 」
 面食らっている八戒の耳元に、老大臣は忠告めいた言葉をささやいた。
「八戒どの。官吏たるもの下賎げせんな妓楼になど出入りするのは禁じられておる。今後は慎むようにな」
「…………」
 八戒は酒の溢れるほど入った器を手に嘆息して天を仰いだ。
「……だから、僕が行ったのは寺だって言ってるのに……」
 誰も八戒の言葉を聞くものはいない。酔いつぶれるまで、席を立てそうになかった。
 困り果てて、外を見ると相変わらず玲瓏れいろうとした月が出ている。八戒は先ほど会った金の髪をした男を思い出した。