春の匂いがする。
ジープは道の路肩に止まってる。渋いカーキ色の車体が木漏れ日を浴びて光る。
「今日のお昼はラーメンです」
八戒が笑顔で荷物を降ろしだした。大きな袋の中から、変な付け髭とか、三蔵の金冠とか、駄菓子とか色々を取り出しては戻している。何か探しているようだ。
「ラーメン?」
悟浄がその切れ長の目を向ける。あたりは深い森だ。鳥の鳴き声がときおり聞こえる以外、ひとの気配もない深い山の中だ。
「そうそう」
八戒は悟浄へすかさず大きな金網を渡した。軍用の野営地でも活躍しそうなゴツイやつだ。
「うへぇ。これ全部、持つのかよ」
ついでとばかりに、ガスバーナーも何本か手渡す。さすがの悟浄も受け取ると体が傾いだ。筋肉が重さで突っ張る。腕に筋が浮いた。
「燃料は重要ですよねぇ」
笑顔のまま、八戒がレジャーシートを取り出す。コンパクトに畳まれているが、大きそうだ。大の男四人でも座れるだろう。うれしそうに抱えている。
「食うなら、もうココで良くねぇ? こんなの運びたくねぇよ」
親友へ悟浄は泣きごとを言った。いつものズボンを履いた足元がよろけた。
「いえ、さっき悟空がすごいとこ見つけたって言ってて」
涼しい顔で返事をする。その腕で黒くふちどりのある緑色の袖が揺れた。
「バカザルのたわごとに付き合ってんじゃねぇぞ、てめぇら」
助手席のドアに身体を預けるようにして、最高僧様はマルボロを吸っていた。
「三ちゃんも持ってみろよコレ! すげぇ重い」
両手にガスバーナーと燃料の箱、それに分厚い金網に鍋を抱えて悟浄が叫ぶ。
「断る」
三蔵が言葉を短く返す。その双肩で魔天経文が木漏れ日を受けて光る。
「てっめぇぇぇ」
悟浄がキレそうになったそのとき、
「八戒っ八戒! 」
悟空の声がした。森の向こうからこちらめがけて走ってくる。走るというより跳躍しているような、飛ぶような速さだ。茶色い髪が揺れ、その黄色いマントには枯葉がいくつもついている。
「こっちこっち」
金色のいたずらな瞳が、仲間へと笑いかける。額の金鈷が光を放つ。悟空は、森の奥の方をまっすぐ指差した。
幾つも緑が重なり、きらめくような春の陽光がその梢を透かして輝く。
森の下草の芽はようやく枯葉の間から芽吹いている。春のはじめだ。ときおり、可憐な紫色のすみれが花びらを揺らしている。黒いブーツで枯れ枝を踏むと、地面が柔らかい感触を伝えてくる。
森が深い。太い木々が黒々とそびえている、隆起した岩の向こうをのぞきこんだ。
のぞきこんで絶句した。
「……え」
そこだけ、ピンク色の洪水があった。
突然、目の前の前という前がくれないの色で覆われる。視界がひたすらピンク色だ。
「これって」
華やかな、くれない色の花。五つの花弁がいくつもいくつも層をつくり、風もないのに重たげに揺れている。
「桜……ですか」
桜の大木が幾つも枝を重ねている一角だった。薄いくれないの花は、咲き始めてからそんなには経っていないようだ。
「咲いてんの、ここだけ?」
悟浄が太い幹を見上げる。ずいぶんと大木だ。互い違いにその太い枝を重ならないように上へ上へと伸ばし、遥かな頭上で咲き誇っている。まるで、ピンク色の万華鏡を覗き込んだようだ。めまいがするほど美しい。
「品種とかが違うんですかねぇ」
凄まじい咲きようだった。美しすぎて凄みがあった。雲かと見まごうような花の群れが頭上で揺れている。青い空との対比が、くっきりとしていて美しい。
「ははッどっかの誰かさんみたく、気が短けぇ桜なんじゃねーの」
「……誰のことだ誰の」
金の髪が、薄っすらとさくら色に染まっている。最高僧は魔天経文がかかった肩をそびやかした。
悟空が案内したのは、さくらの谷だった。密やかに誰のためでもなく咲き誇っている深い山間の秘密の谷だ。
あまりにも、美しくて声も出ない。
しかし、そんなとき
「ぐるるる。きゅー」
美しい周囲と不似合いな音した。
こっけいな低い音。
「ご、ごめん。俺、ハラ減っちゃってて」
悟空が右手をお腹へ当ててかがみこんだ。愛嬌のある茶色の髪が揺れる。
「あはは。悟空のお腹の音ですか! 」
このさくらの谷を探しまわったり、森を走ったりしたのでお腹がすっかりすいたらしい。
「さて、じゃあラーメンつくりましょうか。ラーメン」
八戒がこぼれるような笑顔を向けた。
「今日はサッポロ一番です」
おいしそうな写真のついたラーメンの袋を取り出した。
「いやあ日本の食文化を語るのにラーメンは外せませんからねぇ」
沸騰したお湯に乾麺を二つ折りにしていれている。
「何度もいうけど日本じゃねぇし」
悟浄がツッコミを入れるが八戒は気にしない。
「一口でラーメンと言っても多種多様、合理的かつ奥の深い料理といえますよね」
しゃぶしゃぶ用の豚のバラ肉、卵を割りいれ、キャベツのざく切りしたものを入れて煮ている。手早くスープの素を加えた。
「豚骨や味噌コーンも捨てがたいですが今日は塩ラーメンです」
簡易などんぶりに、八戒はラーメンを盛り付けだした。付け合せのゴマを袋からだして上からかける。
「さっ、どうぞ。できましたよ」
「わーい! 」
四人の間にわりばしが回される。
「うは、うまそう」
わりばしが割られる音が次々と立った。
「ん」
海老や魚介の出汁の匂いに、爽やかな塩の匂いが混じる。化学調味料主体とはいえ、それはまぎれもなく端麗な塩ラーメンの匂いだった。
「うまい。最高」
ひとくち、すすって悟浄がその目を見開いた。化学調味料強めの海鮮主体の味に、割りいれた卵と豚肉が効いている。ゴマの風味が香ばしい。おいしくてつるつるッと麺が喉を通る。
「悪くねぇな」
三蔵もひとくちスープを飲んだ。舌がやけどするほど熱々だった。白く長い袖を気にしつつ、気をつけてハシで麺をすすっている。トッピングされた半熟の卵の黄身が、出汁の味わいに華やかなコクを添え、塩気の中にもほのかに甘さがただよう。
「んまーい! すっげえ。八戒ってば天才ッ」
悟空はまるでラーメンを飲み物みたいにハシでかきこみだした。豚の薄切り肉がまたぴったりだった。麺に絡む塩味のスープの旨みを深くしている。麺とともに食べると甘美にとろける肉の感触に舌が踊った。そして、煮えたキャベツが深い味わいをすべて柔らかく受けとめて包み込む。
「あははは。アウトドアで食べるご飯ってどうして、こう美味しいんでしょうね」
八戒が黒い前髪を揺らして微笑んだ。いそいそと鍋に水をボトルから注いだ。もう一度、湯を沸かそうとしている。悟空がこれくらいで満足するとも思えない。おかわりを見越しての行動だ。
「八戒ぃ俺もっと食べたいー」
「はいはい」
悟空は八戒の返事に安心し、空になったどんぶりを手にしたまま上を見上げた。鮮やかな青い空を背景に、みごとな薄いくれない色の花がいくつもいくつも咲いている。まるでピンク色の雲か何かのようだ。
そのとき、
ひとひらの花びらが悟空の膝のところまでひらひらと舞い降りてきた。
何か、言いたげな様子だった。
悟空はその金色の目を見開いた。
(今度、作ってあげましょうか? とりあえず、サッポロ一番で)
突然、耳に声が蘇った。
目の前の光景と妙な既視感があった。
(うん! )
悟空の脳裏に、肩先までの黒髪、白衣姿で微笑む男の姿が、かすめて消えた。そのメガネの奥の目は優しく微笑んでいた
――――気がした。
「八戒」
悟空は思わず訊いた。
「なんか、すごい昔、こんなことなかった?」
悟空は真剣だった。いつの間にか、ハシを持つ手を止めている。
「……でしたっけ?」
八戒がその緑色の目を細める。先ほど、悟空の脳裏に蘇った人物とまるきり同じ表情だ。三蔵がハシを手にしたまま、ちらりとふたりへ視線を向けてきた。
「そうだよ。こんなふうに、みんなで花見したじゃん? 満月で桜がキレーに咲いてて。三蔵も機嫌よくて」
思い出そうとすると頭痛がした。何か、もう少しで、
もう少しで
三蔵に良く似た白い顔が頭をよぎる、しかしその金の髪は長かった。
そして、軍服らしき服を着た男。そう悟浄によく似た短い黒髪の
悟空は額を押さえた。金属の硬い感触があった。頭に嵌められた金鈷がその指に当たる。
(振り返るとさくらのむこうはだあれもいない)
(だあれもいない)
思い出したいけど思い出したくない。
ひたすら、咲くきれいなさくらの花と。
どれくらいの時間、空を見つめていただろう。
瞬間、
悟空の頭上で、白いハリセンが一閃した。
「早く食え。サッポロ一番はのびる前に食うのが鉄則だろうが」
青筋を額に立てた、鬼畜坊主が気短に怒鳴る。
「いてぇよ! なんだよもう。殴るこたねーだろ」
「イライラすんだよ。イライラ。早く食え」
三蔵は怒鳴った。もう、その手にしていたハシはどんぶりに置いている。権高に整った眉をひそめ、白い僧衣の懐をさぐっている。マルボロでも探しているのだろう。
どこか遠くで、ウグイスの鳴く声が聞こえてくる。薄いくれないの花の群れの間から、柔らかい春の陽光が降り注ぎ、陽だまりをそこかしこでつくっている。三蔵の白い顔も、薄いくれないの反射で、ほのかに染まっている。あたりいちめんのさくらの海だ。
「そうだな。食ったら早く行かねぇと、だよな」
悟空は自分に言い聞かせるように呟いた。そう、いまはひとりじゃない。もうひとりじゃないのだ。
「悟空」
もうじゅうぶん、食べました? 八戒が鍋のふたを手に優しく微笑みかけてくる。
みんなで西へ。そう、みんなで四人そろってだ。
思い出せそうで、思い出せない。
思い出したいけど思い出したくない。
それは、たあいのない よく晴れた日のこと。
それは、たあいのない さくらがきれいな日のこと。
今年もさくらが散ってゆく。
終