「温泉で38」

一日目
雪の温泉というのは三蔵も八戒も初めてだった。
「……静かですね」
「フン。まぁ悪かねぇな」
 風は冷たかった。寄り添うようにふたりで歩いているけれど、つかず離れず適度な距離を保っている。
 というのも、八戒が『図体の大きい僕や三蔵がいちゃいちゃなんてしてたら社会の迷惑ですよ』と寄らせてくれないのだった。
 ひどく古風な玄関の潜り戸を抜ける。背の高いふたりはひっかかりそうになって慌てた。打ち水がされているアプローチを過ぎ、三和土の玄関に足を踏み下ろした。
「いらっしゃいませ」
 丁寧に仲居さんが出迎える。
 しかし、大型の温泉ホテルのようにずらりと勢揃いして客を迎えるようなことはしない。ここはそういう温泉宿ではないのだ。客室数も少なく離れを含めて十室という静かなものだった。
「はい。伺っております。猪八戒さまですね。どうぞ」
 もの静かで美人な仲居さんに連れられて三蔵と八戒はその後ろを歩いた。
 宿内はスリッパ要らずで、掃除が行き届いている。質の良いヒノキ材の床がかすかに足の下で鳴った。
「商店街のくじ引き。当たっちゃったときはどうしようかと思ったんですが……」
 八戒は歩きながら、隣りの三蔵をちらりと見上げた。
「来れてよかったです」
「フン」
 鬼畜坊主が照れたように横を向く。
 梁の行き交う吹き抜けの広間は自然採光をふんだんに取り入れている。宿の共有空間にも木製の長椅子が設えてあり、居心地が良さそうだ。もてなしの心に溢れていた。
 仲居さんまでもが上品だった。男ふたりで離れに泊まる、この異色な組み合わせのふたりを見ても何も言わない。まぁ、こうした秘密めいた宿の性質上、逢引きやらおこもり専用に使われやすい。大抵のことには慣れているのだろう。
「こちらのお部屋になります」
 通された部屋を見て、八戒が目を見張る。
「うわ、すごい」
 渡り廊下で繋がった離れは趣きがあった。上質の数寄屋造りだが、古めかしくはない。むしろモダンだった。湯布院などの宿を彷彿とさせる洒脱さだ。
 離れはそれ自体が小さな家のようだった。玄関を模した入り口をくぐると、奥に続きの二部屋があった。ひとつは居間のようなつくりだった。八畳ほどのその部屋には、木でできた座卓に座椅子が二客分設えられている。
「お食事はこちらで差し上げます」
 仲居さんは丁寧な口調で軽く頭を下げた。そして、隣りの部屋の襖を開けた。
 落ち着いたこたつが置いてある。その奥に見える床の間には北村透谷を連想させる紅白の梅の絵が掛かっている。
「お蒲団はこちらに敷かせて頂きます。……それともあのう」
 仲居さんが言いよどんだ。
「……いまから敷きましょうか」
 思わず反射的に八戒が遮った。
「い、いいです! いいですっ」
「敷きっぱなしにもできますが」
「い! いやいやそんな! 」
 心持ち顔を赤くして、手を振る。
「いえ、皆さん当宿の温泉を楽しみにたくさんお風呂に入れますので……温泉の後はやはり、お蒲団でひと眠りされたい方も多くいらっしゃいますから」
 思わず、更に八戒の顔が赤くなった。
「……バカ」
 ぼそりと鬼畜坊主が八戒の耳元に呟く。八戒が今度こそ真っ赤になった。
「いい。また後で頼む」
 三蔵が低いがよく通る声で仲居に告げる。
「承知致しました。いつでもお申し付け下さい。では、お茶をお出ししますので」
 八戒は、そっと室内を見渡した。ふたつの部屋は襖で繋がり、さらにその二部屋とも南の面で障子を隔てて広縁に接している。
 広縁の向こうは素晴らしい日本庭園だ。一番奥には桧風呂と露天風呂が備わっている。 意匠を凝らした贅沢な造りだった。
 仲居さんはお薄とお着きの和菓子を座卓に置いて、出て行った。八戒がほっとしたような気の抜けた顔をする。
 三蔵は無造作に座卓に腰を下ろした。入り口ではなく、庭園を背にした上座に腰掛けるあたりが俺様三蔵サマだ。と、いうよりもいつも席があるとそうした席へと座らされているので習い性になってしまっているのだろう。
 片手でお茶を啜り、和菓子へ手を伸ばそうとしている。
「おい、何を突っ立ってやがる」
「あ、はいはい」
 八戒は自分の内心の動揺が分かってしまったかと、慌てて三蔵の向かいの席へと腰を下ろした。湯のみを手にしてひと息ついた。暖かいお茶のぬくもりになおさらほっとした。
「それとも」
 鬼畜坊主はにやりと口を歪めた。
「……もう、今から蒲団を敷いてもらった方がよかったか」
「! 」
 八戒がむせる。
 思わず変な置き方をしてしまって、手の中の湯のみが音を立てた。
 温泉に、三蔵を誘ったのは八戒にとってもちょっとした冒険だったのだ。人の気も知らないでと八戒は三蔵を睨んだ。
「まぁ、でもゆっくりできそうじゃねぇか」
 そんな八戒の視線を受け流して三蔵は呟いた。
「た、たまにはこういうのもいいですね」
「……ああ、悪かねぇな」
 満更でもない顔で三蔵が肯く。
 あたりはひどく静かだった。庭からかすかな鳥の声が聞こえてくる。





「悟空じゃないですけど」
 八戒が三蔵の視線の先で笑う。
「こういうところへ来るといろいろ探検したくなりますよね」
「そうか? 」
「ええ、だって、あの母屋の方……っていうんですか? 宿の共有スペースって、バーとかサロンとか図書室とかいろいろあるみたいでしたよ」
 ふたりで、離れについている風呂に入ったばかりだった。すっかり緊張も解れ、珍しく八戒ははしゃいでいるようだ。濡れている髪をタオルで拭っている。浴衣へ着替えた艶っぽい姿だ。
「あっちの方にも大浴場がついてるみたいでしたし……三蔵? 」
「知らなかったな」
ぼそっと呟く。
「ふたりで旅行とかすると、相手の今まで知らなかった一面に気づくって言うが」
「三蔵? 」
「結構、お前子供っぽいところあるんだな。いや、好奇心が強ええっていうか」
「そ、そうですか? 」
 八戒は湯上りで、まだ湿っている頭を掻いた。艶やかな黒髪は濡れてさらに艶っぽい。
「まぁいい。つきあってやる。どこへ行きたいって? 」
 三蔵は、八戒の隣りに自然に立つとタオルを八戒の手から受け取った。三蔵も着崩してはいるが浴衣姿だ。
「……はい」
 八戒は照れたように微笑んだ。そのまま、三蔵の手を取る。
「おい」
 引っ張られて、三蔵が顔を赤くした。いや、顔が赤くなっているのは引っ張られているせいばかりでもないだろう。
「向こうです。この離れを出て、渡り廊下を過ぎた向こうですよ」
八戒が幸福そうに微笑む。
「ったく」
三蔵がその行動をたしなめるように舌打ちをする。
そのくせ、八戒の手を強い力で握り返した。
 ふたりは、肩を並べて歩き出した。袖と袖が重なって触れる。その手はひっそりと、仲良く指と指を絡め合わせたままだった。
 照れたように、三蔵は横を向いた。しかし、その手は八戒から離さなかった。





 その夜。
「失礼します」
 部屋の入り口から仲居さんの声がかかる。
「お食事お持ちしてよろしいでしょうか」
「あ、はいお願いします」
 手をつないだまま、ぼんやりと庭を眺めていた三蔵と八戒は慌てて手を離した。庭に面した広縁に置かれた大きな藤製の長椅子にふたりで腰掛けていたのだ。
 座卓の前に腰掛けると食前酒が運ばれてきた。
「当地の地酒でございます」
 日本酒にしては、フルーティな味わいだ。前菜に魚とウニのカルパッチョ、先付けにホワイトアスパラを茹でて裏ごししたものにキャビアを添えた一品が運ばれた。
「……なんだか贅沢な気がしますけど」
「まぁたまにはいいだろ」
 食前酒を飲んだ、三蔵は顔がほんのりと赤い。色が白いのでそれは目立った。
「不思議ですよね」
「何がだ」
「あなたとこうしているというのも」
 話の途中で、再び部屋の襖が開いた。
 八丁に大ぶりの岩がきが供された。ポン酢が添えられている。濃厚な海のミルクとでも称すべき味わいだ。
「うわ、美味しい」
 八戒が箸を手に呟いた。幸福を噛み締めるかのように目を閉じる。
「まぁ旨いな」
 あまり喜怒哀楽を素直に顔に出さない三蔵だが、ひとくちごとに肯いている。
 料理は本当に呆れるほど種類があった。
 お凌ぎとして出される、軽い分量の寿司はまた上品だった。お造りはマコガレイに本マグロ。魚の種類ごとに供す皿も、伊万里に唐津と変える凝りようだ。本マグロは紀州で水揚げされた冷凍品でないものだというから恐れ入る。
 メインは気仙沼産のフカヒレに牡丹海老を軽く炙ったものを、中身をくりぬいた丸ナスに詰め、出し汁のきいた餡をその上からたっぷりとかけるという自慢の一品だった。
「美味しい。へぇ、こうやってナスに餡をかけると美味しいんですね。今度やってみようかな」
 料理好きの八戒は、食べていると創作意欲を刺激されるものがあるようだった。
 その無邪気な口調に三蔵が吹きだす。
「な、なんです。僕、変なこといいましたか」
「いや」
 珍しく笑いながら三蔵は言った。
「期待してる。作るときは食わせてくれるんだろうな」
「……もちろんですよ」
 ふたりで見つめあった。紫の瞳と、緑の瞳が絡みあう。
 しかし、それも長くは続かなかった。
「失礼します」
 最後のご飯が運ばれてきたのだった。三蔵と八戒は慌てて、握り合っていた手を机の下へと引っ込めた。




 種類は呆れるほどあった夕食だったが、基本的に懐石料理だけあってさして量は多くはない。まだ若いふたりにとっては食べきれぬ量ではなかった。
 最後にデザートを食べていると仲居さんが「必要でしたら、また後でおむすびでもお出しします」と申し出るのに苦笑いして手を振った。
「すごい種類だったな」
「懐石料理ですからね」
 こういう和風のしきたりが嫌いではない八戒は嬉しそうに出されたお茶を飲んでいる。
「失礼します。お隣りのお部屋にお蒲団を敷かせて頂きます」
「たのむ」
「はい」
 同時に返事をして三蔵と八戒は顔を見合わせた。お互い顔を赤くしている。どうにも照れていた。なんだか非日常の湯宿でふたりして調子が狂っているようだ。




 ちょうど、外は雪でも降りはじめたらしかった。ほの白く、空気がしんとしている。静かだった。三蔵が隣りの部屋に通じている襖を開けると、きれいに蒲団がしいてあった。
 重ね敷きされているわけでもない。ごくごく普通に少し間を空けて敷かれている。確かに、ここで重ね敷きなどされたら、もう初心な八戒など、居たたまれなくてしょうがないに違いない。帰りたい気分になるに違いない。
「早いが……寝るとするか。明日も泊まるんだろ」
「え、ええ。言ってませんでしたっけ?……実は三泊なんです」
「なんだって! んなに泊まんのか! 」
 三蔵が驚いたような声を上げる。
「え、ええ」
 ちょっと買い物客の平均年齢が高めの商店街で八戒が引き当てたくじは、実は熟年者向けのものだったのである。確かに年配客ならば、優雅な湯宿に連泊は喜ばれるだろう。
「そうか、じゃあまぁ寝るか。明日はどっか行くか」
 三蔵は、蒲団を捲くると潜り込んだ。もう寝る気でいっぱいだ。温泉にも入ったし、食事もたっぷり食べたし、もう眠いのだろう。
「そうですね。明日はどこかへ行きましょう」
 八戒も浴衣の帯を崩れないように締めなおすようにしながら、蒲団へと入った。本当に静かな夜だった。
「雪、あまり積もらないといいんですけど」
「まぁ、積もったら、ここにいればいいんじゃねぇか。滅多にねぇだろ。のんびりできる」
 三蔵が横になったまま、枕の位置を当てなおすように姿勢をずらした。
 確かに、外の雪は本格的になったようだ。世の中の全ての雑音を吸い取ってしんしんと積もっているようだ。部屋の灯りは消されて、ほのぐらい。部屋の隅で常夜灯が微かな灯りをぼうと放つばかりだ。
 部屋の床の間に掛けられた、梅の絵も定かに見えない。静かな夜だった。
「三蔵……寝てしまいましたか? 」
 まだ、寝入ってはいまいと思って、八戒は三蔵に思い切って声をかけた。返答はなかった。それでも八戒は言った。
「あの、手……握っても、いいですか」
 そっと腕を三蔵の寝ている蒲団へと伸ばした。
 しかし、やはり応えはない。諦めた八戒が腕を引っ込めようとしたその時。
 ごそごそと衣擦れの音がした。
「……これでいいか」
 引き込めかけていた腕を、手をとられる。八戒は暗闇の中、ふわっと白い花のように笑った。
「……はい。おやすみなさい。三蔵」
 指と指を、絡め合わせる。
 その夜、ふたりは手を繋ぐようにして、眠った。
 外はまだ雪が深々と降りつづけている。
 (もしかしたら続く)